東彼杵の自然も鍛冶技術も、決して変えられない価値がある。『森かじや 森保憲さん』

取材、文、写真

「私、本当は裏方でいるのが好きだったんだと思います」

はにかみながら、自分らしい働き方を見つけたと話してくれたのは、東彼杵町にある『森かじや』の2代目・森保憲さんです。

ひと昔前までは町に一軒、必ずあったという鍛冶屋は、今では全国的に希少な存在になり始めています。

東彼杵町でも数少ない職人の一人である保憲さんは、いったいどんなやりがいを持って日々ものづくりに向き合っていらっしゃるのか。金属音の響く工房でお話をお聞きしました。

「手伝うか?」彼杵に戻り、鍛冶職人の道へ

保憲さんは昭和44年生まれ。
子どもの頃は山に登ったり川で泳いだりと、彼杵の豊かな自然のなかで遊んでいたといいます。

大学は熊本にある学校を選び、経済学部を専攻。
その後東京に本社を持つ会社へ就職し、埼玉に配属されて3年ほど働いていたそうです。

保憲「最初の会社では営業をしていました。人と話すことが苦手だったわけではないし、お客さんを訪問する毎日はそれなりに面白かったですよ。でも、3年くらい経ったときにふと都会の生活に嫌気がさして。仕事も営業を一生やっていこうとは思えていなかったので、地元に戻ってみようかなとUターンを決めました」

東彼杵町に戻ってきた保憲さん。
鍛冶屋を継ぐつもりはなかったそうですが、父からの言葉にそっと背中を押されたのだとか。

保憲「もともと鍛冶屋を継ぐつもりなんてなかったので、彼杵に帰ってからは、しばらく自由に仕事したり遊んだりしていました。しばらくすると、父親から「やることが定まってないなら手伝って」と言われたんです」

保憲「父から仕事を継いで欲しいと言われたことはなかったし、私自身も鍛冶職人になるなんて考えていなかったので、正直驚きましたね。でも、帰ってきてしばらくしてもやりたいことが見つからない現状に、もう後がないなと感じていたので、とりあえず手伝うことにしました」

妥協できないから“ものづくり”は面白い

彼杵に戻って家業を手伝い始めたことをきっかけに、意識もしていなかった“職人”の道に身を投じることになった保憲さん。

どの仕事にも向き不向きがあるような気がしますが、全く知らない世界に足を踏み入れることに不安はなかったのでしょうか。

保憲「根本的には、ものづくり自体あまり好きじゃなかったんですよ。プラモデルとかあるでしょ?あんなのも、子どもの頃から最後まで作り切ったことなんて一回もないんです(笑)」

どちらかと言うとものづくりに苦手だという感覚を持っていたそうですが、工房で鍛冶屋の仕事に向き合ううちに、その面白さに魅了されていったのだとか。

保憲「やっているうちに気づいた面白さなんですけど、ものづくりって本当に妥協が許されないんですよ。特に鍛冶屋で作る製品はひとの生活に寄り添うものだからなおさら。自分のためだけに作るものだったらそんなに面白さは感じないんでしょうけど、これを使うお客さんのためだと思うと、とてもやりがいを感じます」

父と働いた25年間。これでもまだまだ半人前

一般的に、一人前の鍛冶職人になるには5~10年ほどの歳月がかかると言われているそうです。
それほど経験や感覚が大切にされている仕事を、保憲さんはどのように技術習得していったのでしょうか。

保憲「父は口数が少なく、厳格な人なんです。子どもの頃なんかは毎日のように説教されていました。だけど、工房で一緒に働き始めてから、ものづくりの場面で怒られたことは一度もありません」

保憲「怒られたり口を出されることはなかったのですが、その代わりに何も言わないし教えてくれないんです。ただ「この作業を覚えてせろ」って手本だけ見せてくれて、後は丸投げで任せられる。だからとにかく試行錯誤して、何度も何度も失敗の経験を重ねました」

当時はわけもわからず必死にその背中を追っていたという保憲さんですが、今振り返ると父の行動も納得できると話してくださいました。

保憲「感覚をつかめるようになるまでは、とにかく失敗を繰り返しました。やり直しの効かない仕事なので、どれほどの材料を廃棄してしまったかわかりません。それでも、父は失敗に対して全く文句を言ってこなかったんです。今、思えば、厳しい修行時代を積んだ父だからこそ、どれだけ指導を受けても、結局は自分の感覚が備わらないとものづくり職人として一人前になれないことを体現してくれたのだろう思います」

職人として背中で語るお父さんの姿、なんともしびれますね。
これほどの経験を積んできた保憲さんですが「まだまだ自分は一人前には程遠い」と語っていました。

人の生活を、東彼杵の町を、裏方で支えるのが私の天職

鍛冶屋と一言でいっても、鍛冶屋には大きく3つの種類があります。

一つは刀を専門とした“刀鍛冶”、もう一つは包丁やノコギリなど、一つの商品の鍛冶に特化した“専門鍛冶”。
そして最後の3つ目が、森かじやさんが当てはまる“野鍛冶”という鍛冶屋です。
「野鍛冶」とは、暮らしのなかで使われる道具を幅広く手掛け、さらに修理まで行う形態のことをいいます。

保憲さんは、野鍛冶としてお客さんのさまざまな要望に合わせて製品を作れることにやりがいを感じると嬉しそうに話してくださいました。

保憲「この周辺には鍛冶屋がもうあまり残っていないので、どんな依頼でも断らず、とにかく一つ一つに向き合うスタンスを大切にしているんです。農機具の展示会やそのぎ茶市にはイベント出店することもあるのですが、直接お客さんが喜んでくれる姿を見れたときは大きなやりがいを感じます」

保憲「実は、仕事以外にも父から影響を受けていることがあります。父が地域活動に活発だったので、私も地域の役員や学校のPTA役員を積極的にやっているんです。何でこんなに人のために動けるのかって?共通しているのは、裏方であることなのかなと思います。関東にいるときは表で支える営業職だったけど、本当は裏方でいるのが好きだったんだと、この仕事を始めてから気づきました。ひとの生活を裏で支え続けるこの仕事は、まさに私の天職なのかもしれませんね」

地元に戻り家業を継いだことで、自分の使命のようなものを見つけていった保憲さん。

これからの東彼杵への想いを聞くと、「町が発展していくのは良いことだけど、私が大自然に囲まれて育ったように、豊かさに変化がない町であって欲しい」と語ってくださいました。

東彼杵に広がる大自然は、決して人の手では染めきれないほどの壮大さを持っている。
保憲さんのお話を聞いて、鍛冶の技術にも東彼杵の大自然と同じような奥深さ、そして、決して変えることのできない価値があることを知りました。

変えられないものだからこそ、人の手で伝承していく必要がある。
保憲さんはこれからも、東彼杵のまちの裏方としてその使命を全うされていくことでしょう。

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