
—女子美術大学・西田秀己准教授との滞在から見えてきたこと—
東京にある女子美術大学の西田秀己さん(以下、西田さん)が、11月某日、東彼杵町に来てくださいました。今年からはじまった森酒店跡地を改修し、中長期滞在の場として育てていくプロジェクトの流れの中で、西尾助教や鈴木助教にご紹介いただき、町の空気に触れていただく時間となりました。

西田さんは、環境や景観を題材に、土地の記憶や人の営みを空間へと描き込んでいく方です。自分を主張するのではなく、その場に耳を澄ませるように立ち上がる表現が特徴で、地域へのまなざしの柔らかさが印象的でした。今回の訪問を通して感じたのは、表現は単独で作られるものではなく、場や人との関わりによって立ち現れるという当たり前のようで忘れがちなことです。土地への敬意や、生活のリズムに寄り添う姿勢があってこそ、地域に受け入れられる表現が生まれていくのだと実感しました。

■ 東彼杵町で、これから何がはじまるのだろう。
どこかで誰かが大げさに旗を振ったというわけではありません。むしろ、気づけば足もとに新しい流れがしみ出してきていた。そんな“静かな変化”が、いま東彼杵町のあちこちで動きはじめています。たとえば、町の営みの中にスッと入り込むように、小さな挑戦が姿を見せています。暮らしと働くことが地続きのまま、無理をしない形で更新されていく。そこに派手さはないけれど、ふっと息をのみたくなる瞬間があるのです。農や食、ものづくり、場所づくり。

それぞれの現場で、これまでの手触りを大切にしながら、次の表現を探す人たちが増えています。彼らの動きは、計画書の上で完結するものではなく、町のリズムにあわせて自然と転がりはじめるもの。気がついたら関わる人が増え、関係が広がり、町が少しだけ軽やかになる。

そんな連鎖が、ゆっくりと進んでいるのです。この町では、変化は「つくるもの」ではなく「育ってしまうもの」に近い。人の思惑だけでは説明できない流れがあり、そこに東彼杵らしさが宿っています。そしていま、その流れは以前より確かに太くなってきています。ささやかな試みが交差し、風向きが変わり、思わぬ方向へと開けていく。この町では何かが“起こってしまう”。その気配に、私たちは耳を澄ませています。これから東彼杵町で、どんなことが“起こってしまう”のでしょう。その問いの先にある景色を、くじらの髭は見つめ続けていきたいと思っています。

■ まず惹かれたのは「風景」より「人」
町を歩きながら、西田さんは「どんなところか、よりも、どんな人がいるのかが気になった」と話されました。観光地として整えられた景観ではなく、生活の痕跡がそのまま風景になっている。東彼杵町には、そうした素のままの空気があります。

そして、手を加える必要を感じさせない完成された風景の中に、小さな“隙間”のような場所が点在しています。水路沿いで草木が入り混じる空間や、誰が置いたのかわからない椅子、なんとなく駐車場として共有されているスペース。制度の外側にあるような、ゆるやかな公共性のある場所に、強い興味を示されていました。「ちょっとだけ探検できる感じが心地よかった」という言葉が印象に残っています。
■ 「起こす」より、「勝手に起こってしまう」
夜の雑談の中で出てきたのが、「何かを起こそうとしないほうが、かえっていいことが起こるのではないか」という視点でした。アーティストが外から非日常を持ち込むのではなく、地域の生活の中に自然と入っていく。その重なりの中で、思いがけない現象が生まれてしまう。その“勝手に起こってしまう感じ”こそ、東彼杵町に合っているのではないかという話になりました。

たとえば、竜頭泉で一晩だけ竹灯りが灯る。sorriso近くの海で、ふと光がにじむような時間がある。茶畑の端に、風景に沈むような小さな仕掛けがそっと置かれる。大きなイベントではなく、生活の延長に生まれる、静かで開かれた変化。それをどう育てていくかが、これからのポイントになっていくと思います。

■ “隠れた半公共空間”という感覚
帰りの飛行機の中で、西田准教授は「東彼杵には“隠れた半公共空間”が多い」と感じたそうです。誰のものとも言いきれないけど、地域の人が自然と使っている場所。その曖昧さが不便ではなく、むしろ心地よさになっている空間。

アートがその“曖昧な領域”と出会うことで、過度に目立つことなく、気配のように存在する表現が生まれるかもしれません。さいとう宿場の女将からも千綿駅のランタン企画のアイデアも出ていて、いくつかの余白が静かにつながっていく光景も想像できました。“隠しすぎず、広めすぎず、迷い込むように出会える場所”。そうした質感が東彼杵にはよく似合います。

■ これから町で起こっていくこと
今回の滞在をきっかけに、景観芸術・環境芸術を通した新しい取り組みを少しずつ進めていきたいと考えています。大きく打ち上げるのではなく、地面に染み込むようなやり方で。生活の視界にふっと現れる小さな表現。誰が置いたかわからない椅子が、もう一脚増えるような変化として水路の“隙間”に軽やかな気配が滞在すること。

茶畑や海辺に、夜だけ生まれる淡い光、千綿駅のランタンがつくる柔らかな接点、半公共空間が静かに育っていく過程。これらは“企画”というより、関わる人たちの歩調が重なった結果として、自然に立ち上がってくるものだと思います。

■ 最後に|静かな関わりから生まれる文化へ
西田さんとの時間を通じて、東彼杵町での表現のあり方を考え直すきっかけになりました。この町の暮らしの中に、無理なく入り込み、生活のリズムを乱さず、そっと寄り添うこと。

そうした関わりから生まれる“気配のような表現”が、これからの町の景色を少しずつ変えていくかもしれません。これから東彼杵町でどんなことが“起こってしまう”のか。その兆しを、くじらの髭として静かに追いかけていきたいと思います。
