町をレンズ越しに見つめ直す。くじらの髭 写真勉強会記録編

写真指導

写真

東彼杵町の光の置きどころ

一年の終わりが近づいた今、ふと夏のある日を思い出しています。 あの日、私たちはカメラを手に町へ出ました。誰かに見せるためでも、技術を競うためでもありません。ただ、立ち止まり、光を受け取り、シャッターを切る。その行為を通して、この町と、そして自分たち自身を、もう一度ゆっくり見つめ直してみようと思ったのです。

見ることを、取り戻す

私たちは、くじらの髭というWeb媒体を運営しています。東彼杵町を拠点に、人の営みや土地の気配を、言葉と写真で記録してきました。けれど、日々の忙しさのなかで、見ることが作業になり、景色が背景に溶けてしまう瞬間もあります。だからこそ、あの日は意識的に歩きました。足音を感じ、風の向きを確かめ、レンズ越しに町と向き合うように。

すでに、あるもの

ファインダーの中に現れたのは、いつもそこにあったはずの風景でした。けれど、いつもとは少し違って見えました。壁に残る傷、使い込まれた道具、季節の光を受け止める窓辺。普段は通り過ぎてしまう場所ほど、写真の中では雄弁に語りかけてきます。東彼杵町には何もない、と言われることがあります。けれど、レンズ越しに見えてきたのは、「ない」のではなく、「すでにある」という事実でした。ただ、近すぎて、当たり前すぎて、見落としていただけ。畑に続く小さな道、港に積まれた道具、駅に流れる静かな時間。それらは派手さはなくとも、誰かの仕事であり、いとなみであり、積み重ねられてきた時間そのものです。シャッターを切るたびに、その一つひとつが輪郭を持ちはじめました。

写真を撮り終えたあと、私たちはそれぞれの写真を並べ、言葉を交わしました。同じ町を歩いたはずなのに、写っている景色は少しずつ違います。その違いは、視点の違いであり、感じ方の違いであり、この町が持つ奥行きそのものなのだと思います。

途中に立つ

気づけば、この一年で、くじらの髭のまわりには少しずつ人の輪が生まれていました。記事づくりに関わってくれる人、写真を撮る人、場所をひらいてくれる人、ただ静かに見守ってくれる人。どれも大きな声ではないけれど、それぞれの距離感で、この活動に並走してくれる存在です。その一人ひとりの佇まいには、この町と向き合う姿勢があります。細やかで、目立たなくて、けれど確かな営み。その積み重ねが、くじらの髭という場を、静かに耕してくれているのだと感じています。

途中に立つ

今回の記事では、夏のあの日に私たちが見た景色と、年の終わりを迎えた今あらためて胸に浮かんでくる感覚を、重ねるように残しています。完成された答えではなく、途中にある視線として。東彼杵町には、まだ言葉になっていない価値が、日常の中に静かに息づいています。くじらの髭は、これからも急がず、誇張せず、その気配に耳を澄ませながら、記録を続けていきます。

次の季節へ

夏の光が、年の瀬に差し戻されるように。この文章は、一年の締めくくりであると同時に、次の季節へ向かうための前触れでもあります。同じ場所を見つめ、それぞれの立ち位置で歩みを重ねてきた時間が、来年、また新しい視線を連れてきてくれることを信じて。