長崎の自然を愛する人たち 第1回:写真家 村山嘉昭(OFFICE RIVER-STONES 代表) 協力:パタゴニア日本支社

協力

  • パタゴニア日本支社

    パタゴニア日本支社

動画

  • 村山嘉昭

    村山嘉昭

写真

編集

Take Action。人間社会の中で、何かを始めるには、少なからず代償が伴ってくる。何かを手放したり、諦めたりすることがあるかもしれない。そこに他人が関わるのなら、賛同してくれる人からの期待や、周りの人からの反感を買うリスクも 出てくるだろう。なによりも、成し遂げるまで自分自身を信じ続ける信念、諦めない忍耐。理想を思い描くことは簡単だが、実際に行動し、続けるということは大きなパワーが必要だ。 スポーツとアクティビズムから環境問題を考え、発信する老舗アウトドアブラン ド『patagonia(パタゴニア)』は、長崎の山、川、海が織りなす自然に魅了され、その魅力と、そこに潜む問題を全国の人たちに伝える活動を続ける人々を応援する。『くじらの髭』を通してお届けする第1回めは、長崎県川棚町川原(こうばる)郷の自然や人々の暮らしを切り取る徳島県在住の写真家、 村山嘉昭さんを紹介したい。

【3分ドキュメンタリー】石木川のほとり ゲンジボタルの乱舞|撮影年月 2021年6月|村山嘉昭撮影

村山「2020年は一度も長崎(川原)へ訪れていません。コロナ禍ということもあって。だけど、同じように取材に通っていた熊本県の川辺川や球磨川には足を運びました。取材を通して仲良くなり、お世話になった方々が豪雨災害の被害を受け てしまったので。取材先の広島で複数のホームセンターに立ち寄り、不織布や防塵のマスクやアルコール消毒薬などを買えるだけ買って、車に積み込んで。災害発生 から2日後には熊本に入り、林道を通って孤立集落に食料を届けたり、マスクを渡したり。その後取材もこなしましたが、何より支援をしたいという想いで、駆けつけました。地震や水害といった災害にも関心がありますが、よく知っている場所が 被災したことにショックを受けました。これまで少なくない数の災害現場に出かけ ていますが、その動機は自然の脅威の中で人がどう向き合っていくのかを知りたい からでもありますが、現状や問題を取材し、雑誌に書いたりして、”今、起こって いることをありのまま伝える”。そういうことをやっています」

自然が好きで、旅が好きで。
幼少からの好きが、今の自分をつくっている

神奈川県横浜市の住宅街で生まれ育った村山さん。出版社に勤務し始めた20代後半からは東京で生活をしていた根っからの都会人だ。

村山「横浜市内といっても、子供時代は家の周りにわりと田んぼや雑木林なんかがあったんですよ。川で泳ぐことはしなかったけど、ザリガニを捕ったり、昆虫採集で雑木林に入ったりとか、そんなことをしていました。また、絵を描いたりすることも好きだったし、フィルムのコンパクトカメラで写真を撮るのも好きでした。でも、なにより知らないところに旅するのがすごい好きでしたね」

子どもは、まだ見ぬ自分の世界を広げたり掘り下げたりする”冒険”が総じて好きだ。村山少年の心を動かしたのは、旅だった。知らない土地に、自分の力だけで行ってみる。そのことに夢中となった。

村山「小学生の時、ミヤタ自転車のカリフォルニアロードという当時流行っていたドロップハンドルの自転車を買ってもらって、サイクリングをしていました。ただ、ひたすら走るだけでも面白かった。横浜からだと、丹沢や小田原に日帰りで行ってみるとか。叔母に付き添ってもらって大洗~水戸の方まで2泊3日で遠征旅するとか。自転車の旅が好きだったんですよね。というか、地図を読みながら自分の力で全く自分の知らないところに行くことがすごい好きだった。高校生になったら、移動手段が自転車から50ccのバイクに変わりましたが、基本は変わっていない。休みの前は学校から帰るとキャンプ道具をバイクに積んで、山梨の林道なんかを走ってテント泊してというのをやってたんですよね。行動範囲が一気に広がりました。そのことで学校外で知り合いの幅が広がり、カヌーにも乗るようになりました。川に触れて遊び、自然を楽しみつつ自然のことを考えるようになっていったのは、この出会いが大きかったです。学校の思い出って…校歌もろくに覚えていないんですよ(笑)。友達も少なからずいたけど、学校そのものに興味がなかったから。今度の週末はどこに行こうとか、そんなことしか考えていなかった学生生活でした」

現在は、東京を離れて徳島県徳島市に在住。なぜ、四国の地を選び、活動を行うようになったのだろうか。

村山「20年くらい前から何度も通う場所というのが、全国に何箇所かあります。九州だと熊本県や長崎県ですね。徳島県もそういった場所の一つで、そのため知り合いが多かった面もありますが、移住したのは一旦東京を離れようと思ったのが大きかったです。長崎県へ移住してきた人たちも感覚は同じではないでしょうか。”ちょっと、東京じゃないところから日本の社会を見てみたい”という気持ちが強くなっていきました」

そして、理由がもうひとつある。

村山「東日本大震災が2011年に起こって今年で10年が経ちましたが、当時は地震が起きた直後から福島や宮城へ駆けつけ、取材や被災者支援の活動をしました。その後も、ことあるごとに東北に通って、そこで出会った人たちとずっとお付き合いさせていただいて。これからも通い続けるし、東北を見続けることは大事だと考えていますが、西日本も今後南海トラフ地震が起きる可能性がゼロではありません。災害はいつ起こるかわからないですが、もし起こっても東北のように津波は防ぐことができない。それは、どんなに科学が発展したとしてもです。当たり前ですよね。でも、津波で命を失わないことはできるんです。逃げれば良いだけの話だから。そう考えたときに、取材活動じゃなくて何か防災活動みたいなものができないかなと思うようになりました。メディアに携わる者として、今まで散々報じてきたけど、同じようなことが起きて同じような犠牲者が出てしまったら、自分たちは一体何を伝えてきたんだろうというショックがあると思うし、なにより東北の人たちも悲しむと思います。何のための教訓だったんだと。そこで、一人でもそういった活動ができないかなと思い、知り合いも多く、好きな川もたくさんある徳島に引っ越しました」

自然が牙を剥いた時、自分に何ができるか。
現場での“葛藤”が、氏を写真家たらしめる

 幼少期から旅が好きで、自然が好きで。各地を訪れては見聞を広め、研鑽を積んで行った村山さん。その現状をカメラで切り取り、発信するに至った経緯とは。

村山「カメラはずっと前からやっていました。20代からフリーランスやバイトで活動していたり、農業関係の出版社の写真部で働いていたりとか。また、カヌー仲間と一緒に四万十川や長良川、釧路川に行って自然を満喫する中で、神奈川県を流れる地元の川についても考えるようになりました。そして、川へ行ったら写真を撮って記事を書き、発表するようになって。そんな感じです。だから、20代前半、1995年以降から自然を通していろんな問題を知るようになってから本格的に写真の道を考え始めたと思います」

その1995年の1月17日、日本史に残る未曾有の大災害が発生する。兵庫県南部地震により発生した『阪神淡路大震災』だ。6千人以上もの人命を奪った戦後近代都市での災害として、国内のみならず世界中に衝撃を与えた。

村山「当時、写真の仕事を少しずつするようになり、このまま仕事にしようかなと考え始めていました。なので、震災現場にカメラを持っていったんです。ボランティアに参加して手伝いをしながら取材するつもりだったのですが、現地では何一つ満足なものを撮れませんでした。カメラマンとしてはある意味一番画になるような、辛い場面も目の当たりにしましたが、結局シャッターを押せなかった。当時は私の中で撮るだけの覚悟はなく、考えが浅かった。そのことが今でも忘れられなくて。何もできなかったなという思いがすごくあります。当然、災害は個人の自己実現のためにあるわけじゃないので、とても不遜な考え方だと自覚していますが、次はもっと良い方向で自分が納得できる報道が、そういう活動ができるんじゃないかなと」

災害の惨劇、恐ろしさを知るとともに、そこで生き続ける人を撮るという行為に対し、カメラマンとして、人としての葛藤が芽生えた。その葛藤を胸に、今日もカメラを持って現場へと向かう。

村山「しかし、それは当事者に言わせれば余計なことで、私の葛藤なんてどうでも良いことです。自分語りだとか、自分の経験値をアップさせるために被災地があるわけではないので。でも、私自身が気になるんです。困っている人がいたら放って置けないと気持ちになり、でも写真を撮ったところでその人たちの状況が劇的に良くなるとも思わない。常にそういう葛藤が現場にはあり、社会や自分に対しての悔しさがあるからこそ、災害がある度に駆けつけているのかもしれません。今も反省と後悔の繰り返しです。このような経験を重ねる中で、自分自身に言い聞かせていることがあります。それは、被写体を”素材”にしないということ。この考えは、川棚町での取材活動においても同じです」

川棚町で、自然を撮るということ。
カメラマンとして、突き動かされる衝動

村山「行動原理は、小学生の時から変わっていません(笑)。そういうわけで、ずっと私の中で”川”が関心事となっています。川棚町へ頻繁に足を運ぶようになって6年くらいが経ちましたが、そこで写真を撮る理由も”石木川を守りたい”という人々に共感するところがあるからです。熊本県の川辺川や、徳島県の吉野川も同じように取材を続けていますが、石木川も私にとっては大切な川なのです。そして、災害で甚大な被害を受けた東北へ通っているのも同じような思いからです」

川が好きだから。自然が好きだから。自然を撮り、災害を撮り。そして、そこで生きている人々を写真に収めてきた村山さん。その活動は、身体が続き続ける限り止まることはない。

村山「『川ガキ』という言葉を知っていますか? 川で遊ぶ子どもたちのことをそう呼んでいます。良い川には川で遊んでいる子どもたちがいる。ある意味、川の健康度がわかる指標生物と言ってもいい。ただし、この場合の”良い”は単純に水が綺麗だとは限りません。水が綺麗でも、川と暮らしの関わりが途絶えたところには『川ガキ』が生息していないのです。川を知る人がいて、はじめて生きていける。ダム計画の是非や川を守っていくことの大切さをただ伝えても、川で遊んだことがない人の関心が薄いのも当然だと思います。難しい問題を伝えるのは大切な事ですが、川で遊んだことのない人たちに川で遊ぶ子どもたちを紹介しつつ、川の良さや魅力を伝えていくことの方が、結果的に効果的ではないかと。川で遊んだ経験があれば、綺麗な川のままであって欲しいという気持ちも分かりやすいと思うんです。難しい話やルポルタージュは他でやっている人がいるので、私はその前段階、前説として川に興味を持ってもらえるような活動をしようと考え、川で遊ぶ子どもたちの写真を撮り始めました。そして、写真展を企画したり、本を作ったりもしました」

時代が移ろい、世代が変わっていく中で、歴史を、史実を未来を担う世代に伝えていくことは今を生きる人たちの責務だ。あとは、どのように伝えていくか。それが、メディアに携わる人間の腕の見せ所なのかもしれない。

【3分ドキュメンタリー】石木川のほとりにて|撮影年月 2021年6月|村山嘉昭撮影

村山「ある程度意識を持ったカメラマンやメディアの方が県内にいるのは心強いと思います。いるのといないのとでは全然違いますから。やっぱり、地域で起きていることは、できるだけその地域の人が伝えるのが理想です。長崎県内であれば長崎新聞の記者が熱心に石木ダムの問題を取材していますが、テレビでも何か動きがあれば県内放送局はローカルニュース枠で報じています。しかし、全国的な話題までにはなっていません。ですから、全国に向けて発信をする行為は写真を撮る人間、文章を書く人間の役目だと思います。できる人間ができる範囲で取り組み、現地の声を拾うスピーカーになる。拡散力のあるメディアじゃなくてもSNSなどでも構わないと思います。現在は、伝えるメディアが新聞、テレビだけではありません。誰かが発信することの方が重要なのです。石木川のほとりに暮らす人や自然を写真に撮り、それらを発信するのが私にできることかなと思って、長崎へ足を運んでます」

年間の三分の一が車中泊。
全国を走り回る活動を支える道具たち

全国各地を走り回って取材するカメラマンにとって、足となる車は欠かせない存在となる。村山さんにとって、カメラの次に必要な道具だ。こだわりも強い。現在は、スズキの「エブリイワゴン」が右腕を務めている。

村山「去年はコロナ禍で記録的な少なさでしたが、通常は100泊は確実にしていて、多くて150泊前後はしてると思います。ちゃんと数えたことはありませんが、年間の三分の一は確実に車で寝ている(笑)。今、軽自動車に乗っているんですが、前は大きなキャンピングカーに乗っていたんですよ。寝泊まりしたり、荷物を積んでいろんな仕事をしたいとなるとキャンピングカーが便利なんですが、目立つんですよね。物見遊山にも見られるし。カメラマンっていかに細かくロケハンができるかに撮影の出来が左右します。入れる路地は全部入って、例えば、どの場所からならばホタルと川が美しく撮影できるとか、ここだったらこう言う画が撮れるとか。撮影前に現地を走り回ります。住民の生活圏の中にもガンガン入っていくので、目立たない車の方が精神的負担が少ないです。農道や林道にも違和感なく入っていける車が欲しいと思い、買い替えました。購入後に自作のベッドを設置し、長距離移動のために運転席を特注のレカロシートに替えました。軽バンは、小回りが効いて、燃費もキャンピングカーより悪くない。正解です。もっと前にこの車にしておけばよかったなあって(笑)」

村山「カメラに関してもそうです。以前は、ゴツくて重いカメラに、さらにバッテリーグリップをつけたりしていろんなところを回っていましたが、今はできるだけ持ち運ぶ機材を少なくしています。とにかく、フットワークを軽くしたい。重いと、移動に支障が出ますから。愛用している三脚は、『ハスキー』というアメリカのメーカーのものですが、これは30年選手です。スチール製ですが、とにかく丈夫。軽量のカーボン製が当たり前になった今でも写真家で使っている人がすごく多い。ロングセラーですね。最初の頃に出たカーボン三脚も現役で使っています。ボロボロだけどね(笑)。でも、ちゃんとメンテナンスをすればずっと使えますね」

フォト・ジャーナリズム。一枚の写真から語りかけてくる情報の力は計り知れず、ときに大きな波紋を呼ぶことがある。ピュリッツァー賞で有名な「ハゲワシと少女」ではないが、レンズを通して自分が見た世界を伝える、訴えるのには責任と葛藤が常に渦巻く。葛藤し続け、それでも揺るがない信念を持って現地に入りシャッターを切れる人間が、ジャーナリズムに向いているのだと思う。足繁く通い、市井の住民や自然の声に耳を傾け、心を通わせるからこそ撮れる、撮らせてもらえる写真がある。村山さんが切り取る写真からは、潜在的な魅力が引き立っている。

【3分ドキュメンタリー】石木川のほとりで絵を描く 石丸穂澄さん|撮影年月 2021年6月|村山嘉昭撮影

ことについての詳細は、以下の記事をご覧ください。