地元のためにできること。病気を通して得たもの、人とのつながり。『株式会社ウラノ 惣津啓太さん』【長崎国際大学 佐野ゼミ生共著記事】

取材・文

  • 荒木美鈴(長崎国際大学佐野ゼミ生)

    荒木美鈴(長崎国際大学佐野ゼミ生)

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ウラノ 惣津さん メイン

長崎県佐世保市生まれの惣津啓太さん。現在、株式会社ウラノ 総務Grセクションリーダー(人事/URANIWA)として働いている。

今年1月に大病を患い、現在も治療中。ポジティブで明るい性格な惣津さんは、病との闘いの中でも不安な表情は一切見せることなく、これまでの人生について語ってくれた。

株式会社ウラノで働くまで

惣津さんは高校時代、材料技術に興味を持っていた。就職活動の際、地元・川棚にある工業系の企業に就職することを夢見ていたそうだ。陸上部の先輩が就職していたので、先輩がいたら面白いなと思い受けた。

当時は、募集がなく進路の先生に頼んで「募集できるように企業に頼めませんか?」と交渉したりもした。すると、「今年は3人募集する」と企業側から連絡があり、その3人の中に選ばれ、チャンスを掴むことができた。最初の就職先での仕事内容は、機械加工でセラミックス素材を削ったり、生産管理やスケジュール管理など管理業務も若い頃から挑戦したりしていた。

ウラノ 惣津さん 取材風景①

そこで24歳まで勤めたのだが、ふと「このままでいいのかな」という考えがよぎり、会社を辞める決断をした。半年から1年、アルバイトをしながら世間を見ていた。

「ある日、今のウラノっていう会社が、2006年に長崎県に工場を出しますよって知らせを聞いて。そこで新聞を見て、宇宙航空っていうかっこいいフレーズが書いてあって興味が湧いた。『集団面接します』と書いてあり、さすがに宇宙航空って大卒でスキル高い人しか行けんやろうって思っていたけど、とりあえず行ってみた」

面接が終わり、家でリラックスしていると予期せぬ電話が。

なんと、その日に2度目の面接依頼があり、これまでの経験にないことでとても驚きだった。結果は、100人の中の10人に選ばれ、25歳で株式会社ウラノに入社することができた。

ウラノで働いてから

1年目は、生産技術者として、機械を使って宇宙・航空機部品を製造する業務を担当した。初めての産業だったため、右も左もわからない状態で一心不乱に仕事に打ち込んでいた。

27歳から32歳まで5年間、生産管理のグループリーダーを任された。若い頃にリーダーを任され、人を育てるというより自身が育っていなかったため、失敗もして、葛藤があったと当時を振り返る。その次に生産管理と営業。38歳まで長崎の営業窓口となって仕事をしてきた。

ウラノ 惣津さん 仕事風景

そして、2019年3月に今の役職である副工場リーダーになった。これまでの経験を活かし、さらに一歩踏み出して、社外の人々とのコミュニケーションを深め、工場の運営を見直し、改善点を見つけては調整を行い、お客様の期待を超えるサービスを提供することに専念している。この役職は、「私にとってただの仕事ではなく、毎日が挑戦であり、お客様との信頼関係を築き上げる喜びに満ちている」と惣津さんは語る。

「地域のボランティア活動に参加して、企業がなんのためにあるのかを考えている。ものづくりの企業として地域に必要とされるためには、どうすれば社会と地域と繋がることができ、『東彼杵にウラノさんが必要です』って落とし込まれていくのか。今それを考えている途中です」

惣津さんは、株式会社ウラノが必要とされるように、自ら地域のボランティア活動に参加して日々学んでいる。ボランティア活動を始めたら、ひとこともの公社の森一峻さんと出会い、今後の活動にも大きく関わる人となる。

仕事を通して大事にしていること、
若い時代に経験したリーダーの乗り越え方
ウラノ 惣津さん 取材風景②

「悩んだら難しい方を選ぶ。達成した時に苦労話もできるし、そっちの方が身につくのかなって思う。簡単にできるよりかは、いいかなー」

仕事の中で大事にしていることを語ってくれた。

「楽しく仕事をしたい。常に新しいことを考え面白いことをしていきたい」などと惣津さんは仕事をするうえでのテーマがあった。

若い頃にリーダーを任された惣津さんは、よく辛くて苦しくて泣いていたそうだ。「仕事を覚えないといけない」「部下の育成もしないといけない」「リーダーの仕事もしないといけない」と押しつぶされていた。

ウラノ 惣津さん 本を読む様子

そんな時惣津さんは、悩んだら本屋を訪れ、自分の悩みが解決する本を読んだり、読んで学んだことを実践したり、うまくいっている人の話を聞いたりするなどして苦労しながら仕事を乗り越えていった。

リーダーを任された当初は思うようにいかなかったが、惣津さんだからこそ若くてもリーダーをやり遂げることができたのではないかと考える。若い頃にリーダーを任される惣津さんは周りからの信頼は大きかったはずだ。

率先してボランティア活動に専念

趣味でトライアスロンをしていた惣津さん。大会にでるほど熱中していた。しかし、コロナウイルスの影響で大会が中止になり練習もしなくなった。

少しは体を動かそうと近所を走っていると、ゴミがたくさん落ちていた。当時の光景を見て、「汚いなー、人の心が汚れているからこうなるのだろうな」と思っていた。ただランニングをするのはもったいないと思い、火バサミとゴミ袋をもって落ちているゴミを全部拾いだしたことがきっかけで、環境保護活動を始めることになった。

ウラノ 惣津さん ゴミ拾い

その日はゴミ袋いっぱいになっても、次の週にまた来るとたくさん落ちている。ゴミ拾いを続けていると、同じように活動している方がいた。〈Kujaku Peace〉という団体の方々である。Kujaku Peaceは、大崎半島の環境保護活動に加え、地域の人々と新しいまちづくり活動を行っている。それから仲良くなり一緒に活動するようになった。

このような活動をしていくうちに環境問題に目覚めていった惣津さん。

他にも、地域のボランティア活動に参加すると色んな人と出会い、環境に対するイベントをするようにもなった。「環境問題は解決できることではないけど考えることをやめない。そういうのが面白い」と語っていた。

自ら進んで行っているボランティア活動。「落ちているゴミを拾う」。簡単なことであるが、率先して地域のために活動する惣津さんは地元の誇りである。

不意に訪れる闘い

2024年1月、約10万人に1人の病気と言われる精巣がんにかかってしまう。一番初めに思ったことは「俺死ぬのかな」「転移しとるけん治らんかったらどうなるとやろう」などの不安な思い。

2月5日検査、2月7日入院、2月8日手術とハードスケジュールであった。運よく先生のスケジュールが2月8日だけ空いていて手術をするようになった。空いていなかったら1ヵ月後になってさらに進行していたかもしれないと当時のことを振り返る。

ウラノ 惣津さん 

「今思うと考える時間もなかった。『俺死ぬとかな。なんとかなるのかなー』って複雑な思いをしてた。今までできよったことができなくなるし、抗がん剤治療と聞くときついし吐き気もあるしご飯も食べれないし、脱毛もするとかあって恐怖もあった。そんな状況だけど、とりあえず手術の日だけは決まってたね。もうなんも考えずそこまでは終わった」

手術は終わり抗がん剤治療がスタート。1週間点滴つなぎっぱなし。トイレに行くのも点滴と一緒。身体や精神的にも堪える薬のため、忍耐力が求められた。

しかし、森さんから言われた一言で気が付いたことがあった。

惣津さんは今までやってきた陸上やトライアスロンをしていたことで、追い込まれるほど乗り越えてやろうというモチベーションが湧いてきていた。また、人とのつながりを再認識し、みんなが支えてくれたことに対して答えないといけないという心の中であった。

ウラノ 惣津さん 取材風景③

最終日につれ、精神状態は追い込まれていった。

「1クール21日間。約1ヵ月間の抗がん剤治療。4クール目の最終日。あと2日・あと1日・あと何時間との闘い。体力も気力も限界で、まさにガス欠状態で走り切るのでとてもきつい。終わった瞬間、『はぁ終わった…』って達成感があった」

長い抗がん剤治療を終え、惣津さんは病気と闘った。簡単には乗り越えられない病気との闘い。苦しい時期もありながら1歩1歩前に進み続ける惣津さんの姿は、地元の方からも応援されていた。

インスタグラム発信のきっかけ、恵まれた環境

惣津さんは、病気をきっかけに、「zuso_story」というインスタグラムアカウントを作成した。1人になっちゃダメだと思い、自分の考えを吐き出せる場所がほしくてインスタグラムを始めた。

惣津さんのインスタグラムはこちら

また、インスタグラムで発信しながら、病気で同じ苦しい思いをしている人に見つけてもらって、誰かの支えになればいいなと思っているそうだ。

投稿を毎日していると、会社の人や地域の方が心配してくれて返しきれないほどのメッセージが届いた。改めて惣津さんは、当時を振りかえる。

ウラノ 惣津さん ゴミ拾い②

「僕ってこんな繋がりがあったのか。こんなに人に囲まれていて感謝だな。気づいたらたくさんの方が支えてくれていた。また、ボランティア活動の仲間が応援メッセージをくれた。投稿している中で、本当につらい時期もあった。でも、周りのみんなが応援してくれることで頑張れた。今日きついから投稿しないのではなく、ここまでやり遂げようと思いながら更新を続けていった」

惣津さんが進んで行っていたボランティア活動。そのおかげでいまとなると、惣津さんは多くの方から応援される人となっている。

新たな出会い、メッセージ

闘病生活中、日々研究所の森さんと内田さんが入院中にTシャツを届けてくれた。Tシャツに書かれていた言葉が、「ハッピーポンコツ」である。これを着たら元気になって、「どうせ俺はポンコツだ」と心が軽くなった。

「やっぱ強い精神力があるわけではないし、なんか成し遂げてる訳ではない。ただの普通の人だからこそ、このTシャツをもらって『ちゃんとしなくていいや』と思えた」

「ポンコツ」って響きが悪いけれど、惣津さんの中では「愛されキャラ」だと思っている。ハッピーポンコツTシャツに出会ったことで病気も乗り越えられた。

ウラノ 惣津さん ハッピーポンコツ

惣津さんの経験から、病気の方へのメッセージを語ってくれた。

「病気になってしまったら、なんで自分がって考えることがあると思う。だけど僕は選ばれたっていうか、大きな病気って選ばれた人がなるのかなって思っている。悩んだときは次のステージに行くための神様が与えた試練。

それを乗り越えた先に新しい何かがあるし、切符だと思うんですよね。そこはもう乗り越えるかは自分次第。苦しいかもしれないけど、乗り越えたらきっとなにか違うものが見えてくる。辛いかもしれないけど、待っている人もいるし、得るものがたくさんあるから諦めずに闘ってほしい」

とても心にささるメッセージをくれた。決して病気を乗り越えることは簡単ではない。しかし、惣津さんのことを家族や友達など多くの方が応援している。負けずに病気に闘ってほしいと思う。このメッセージが、病気と闘っている人に是非届いてほしい。

ウラノ 惣津さん 

また、惣津さんのインスタグラムからも影響を受ける人がいるのではないだろうか。惣津さんのリアルな心境や出来事が詳しく投稿されている。普段当たり前に生活を送っていることは当たり前ではない。苦しんでいる方も周りには多くいる。

インスタグラムを是非読んでいただき、1分1秒を無駄にせず生活してほしいと思う。

今後の目標

直近の目標は、治療を終えて会社に復帰することである。もう1つは、病気して得たものを自分の言葉で伝えていくことである。

ウラノ 惣津さん 会社の外観

会社には若い子が多いため、食生活について見直してほしいと考えているそうだ。若い頃に食べた物が、病気となってでてくるということを伝えていき、社食ごはんの利用者数を増やしたいというのが目標である。

惣津さんの中では、他にも考えていることがあった。将来は、地域に貢献できることをやっていきたいと語ってくれた。

「今は土台を作り、環境のことを考えながらまちづくりできたらいいな。できるだけそういうことを考えられる町で活動していきたいと思う」

惣津さんは、常に新しいことに挑戦することを得意としている。チャレンジを続ける惣津さんの姿は楽しそうであった。