仕事が遊びを兼ねていた。そういう時代だった。 レストランtaihaku店主・大西一男さん

取材・文

写真

ジャンボ尾崎さんのトーナメント使用クラブ、三波春夫さん直筆の手紙、道場六三郎さんと宴席を囲んだ写真。

平成生まれの自分でも、名前は聞いたことのある方々。その、ゆかりの品々。なぜここに?

東彼杵町に50年続くレストラン「taihaku」。東そのぎICの交差点から南へ100mほどくだったあたり、緑屋根とポップな看板が目印のお店です。

店内には、冒頭に書いたようなものたちが平然と置かれています。それだけじゃない。注文しようと手にとったメニューは、やたら品数が多い。BGMは情熱大陸。

なんというか、実際に訪れてみると、言葉で書くほど強い主張は感じないんです。ふつうに定食を食べて、ふつうに帰っていく人も多いと思う。取材でなければ、ぼくもそうしていたかもしれません。

ただ、気にしはじめると、いろいろ気になる。どうしてこんなお店ができたんだろう。

教えてください、大西さん!

目には見えない、無形の財産に助けられてきた。

taihakuの店主、大西一男さんは波佐見町出身。

製陶会社に勤めるお父さんの影響で、幼いころから焼き物が身近だった。

「小学校3年からお袋と一緒に手伝いはじめて。5年生のときには『売り子に来んか?』って言われて、有田の陶器市にも行きました。休みっていう休みはほとんどバイトですよ。あまり裕福な家庭でもなかったし、自分は長男だし」

大西さんが高校生のとき、お父さんが焼き物の販売会社を設立。長期休みは一緒に大分・別府や山口県のほうまで出張にも行ったそう。

小さいころから焼き物に触れてきた大西さんと、もともと工場長を務めていたお父さん。ふたりのコンビネーションで、販路はトントン拍子に拡大していく。

転機が訪れたのは、創業から4年後。現在のtaihakuの土地を買わないか?という話が舞い込んだ。

「この近くに昔ホットドッグ屋さんがあって、通りがかりにちょこちょこ寄りおったんです。コーラの栓があたり一面に散らばってたんですよ。きっと繁盛してるんだろうと」

もうひとつ、決め手になったのは、お父さんの一言だった。

「親父は山口県の下関生まれで。響灘っていって、こういうふうに海が見えるところなんですけど、この眺めが『ふるさとに似てる』って言い出してね。ここでレストランでもせんかと一発で決めて」

レストランの運営は、調理師の資格をとった妹さんと奥さんではじめることに。

大西さん自身はというと、陶器の営業で相変わらず飛び回っていた。

「割烹旅館とか結婚式場、ホテルとか、そういうところに業務用食器を卸していました。夕方5時ごろになると、どこも忙しくなるけんね。あるお店で、盛り付けをちょっと手伝ってって言われたんです」

盛り付けをしつつ、板場さんの働きを盗み見ては、料理のことを少しずつ学んでいった。

「手伝う代わりに、泊まり賃はタダ。宴会場に泊まったこともありますよ。舞台のところに、女将さんが布団を敷いてくれて」

いろんな料理人に出会い、別の店を紹介してもらい、そこから弟子が独立するタイミングでまた器が必要になり…次々と縁はつながっていく。

道場六三郎さんと知り合ったのもそのころ。東京や福岡、長崎で新しく出店するときには声をかけてくれた。

「自分には力はないけど、周りの人から『あそこ行ってみんか?』と力添えいただいて。そういうなかで、仕事ももちろん、遊びも覚えましたよ。人が飲んだことないようなお酒を飲んだりね」

人が飲んだことないようなお酒…(笑)。

「遊びも仕事も一生懸命。昔は今みたいに遊ぶところがあるわけじゃないしさ。仕事が遊びを兼ねてた。そういう時代やったもんな」

著名な方との写真や手紙など、いろいろ飾ってありますけど、そのつながりは当時の仕事から広がっていったんですね。

「そうです。お金にしても土地にしても建物にしても、みんな財産を持っているじゃない?自分がみなさんに負けないのは、出会った人の数。お世話になった人の数だけは負けん。それはぼくの一番の財産なんです」

人とのつながりこそ、財産。

「財産には、目に見える有形のものと、心に蓄える無形のものがある。自分はこれまで有形のものでずいぶん痛い目に遭ってきたし、無形のものにさんざん助けられてきました。人生振り返ったら、やっぱり出会いが一番の財産だと思いますね」

15年ほど前に陶器の仕事の第一線から身を引いた大西さんは、その後、レストラン運営に力を注いでいく。行く先々の割烹旅館を手伝っていたおかげで、たいていのことは自分でできるようになっていた。

お店の外へも、taihakuの味は広まっていった。今では長崎市内で50箇所以上、仕出しのオーダーがある。佐賀や福岡から注文が入ることもあるそうだ。

もちろんそれは、偶然の産物もありながら、味だったり、50年にわたる実績だったり、さまざまな面から信頼を得てのこと。

地道なことや泥臭いことを積み重ねてこそ、運や縁や偶然の機会は巡ってくる。大西さんのお話を聞いていると、そんなことを考えさせられる。

今年で50年。続く店の秘訣。

「うちは今年で50年になります。この田舎町で、飲食でね、50年続くってそんなにないと思う」

続ける秘訣って、なんでしょう。

「レストランはお客さんがおいでになるのを待ってないといかん。しかし陶器のほうは、攻めていける。商売のコツは、攻めと傍受を兼ね備えることです」

なるほど、待つばかりでなく、攻めが必要。ある意味仕出しもひとつの攻めですね。

「時代は変わるでしょう。陶器の営業も、昔はカバンに見本入れて、車に積んで回りよった。今はそれもネットでできる。こういうお店にしても、厨房だけあってテイクアウトで取りにくるとか、配達してもらうとか。そがん形に先々なっていくんじゃないかな」

コロナ禍を通じて、大西さん自身、守りの意識にとらわれる時期もあった。

ただ、あるお客さんとの会話を通じて思い直し、老朽化していた屋根の補修、冷蔵庫やエアコンといった設備の入れ替え、弁当配達の需要増に対応した機械化など、昨年は大がかりな投資も行った。

「ただ、」と大西さんは続ける。

「ひとつ言えることは、もうおいたちの時代じゃなかっさね。70のじいちゃんがね、先頭立って旗振りよってどがんする、って」

「そうじゃなくて、やっぱりこれからは若い人が旗を振って、それを一歩下がって土台づくりに手を貸すっていうかね。そっちのほうがいいよね」

ここのお店は、これからどうするんですか。

「うちは跡取りおらんちゃんね。で、今70歳でしょ? やれて5年かねって。あとは従業員さんでやりたいって子がいたら、いろいろぼくらも手伝いながらやっていくことも考えないかんし。でもね、ぼくは同業者にはあんまり勧められない」

それはなぜ?

「ここで飲食をやっていくむずかしさを一番わかってるのはぼくらやから。やっぱり異業種がいいんじゃないかなって思うよね」

眺めもいいし、雰囲気のある空間だから、居抜きの状態でお店やアトリエ、シェアスペースにしてもいい。想像すると、それはそれでちょっとおもしろそう。

だけど、このお店を引き継ぎたい人も、きっといるんじゃないだろうか。50年分の思い出が詰まったこの場所は、なんとかそのまま続いてほしい。話を聞いていくうちに、勝手ながらそんなふうにも思いはじめる自分がいた。

自分の心のなかにある、自分の足跡。それを一番にせんばって思ってる。

大西さんはインタビューのなかで、ここには書ききれないようなエピソードの数々も聞かせてくれた。

くだけた、世俗的な話をしていたかと思うと、ふいに人生哲学を表すような言葉が挟み込まれる。その会話のリズムは先が読めず、一緒にたどっていく過程がなんだか楽しい。

「失敗は成功のもとって言葉がありますね。ぼくは、失敗は心配のもとやろうと思うんですよ」

失敗は心配のもと?

「失敗すると、周りの目が気になって心配になる。失敗が怖くなると、挑戦もできない。失敗そのものは、いくら時間が経っても良い意味に転じるわけじゃないと思うんです」

「これまでぼくも、七転び八起きどころじゃなく、何十回と転んでは起き上がってきました。そのうえで必要なのは、失敗してもいいんだっていう気持ちの余裕。その余裕はどこから生まれるのかといえば、自分を信じることよね」

自分を信じることで、余裕が生まれる。それは、成功するまで走り続けるエネルギーになる。

「SNSやインターネットから学びとれることも、たくさんあると思う。うちにおいでになる方も、いいことわるいこと、いろんな投稿をしていただくと聞きます。だけど自分はほとんど見ません」

「大事なのは、自分の心のなかにある、自分の足跡ですよ。それを一番にせんばって思ってる。のぼせたらいかんよ? いかんけど、『自分が自分を信用しなくて、誰がしてくれる?』って。遊びも仕事も、それは一緒ですよね」

最後のお話は、ついインターネットのなかに意味や娯楽や何もかもを求めたくなる自分にとって、チクッと胸に刺さるような話でした。

これから先、自分が揺らぎそうになったとき。そんなときは、スマホを閉じて、ふらっとtaihakuのごはんを食べに行ってみようと思います。

だから大西さん、ぜひもう少し、このお店を続けてくださいね。

「みせ」の記事は下記からご覧ください。