相手の喜ぶ顔が見たくて、最高の贈り物に仕上げる。『岩嵜紙器』三代目・岩嵜大貴さん

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『贈り物』。それは、愛情や祝福、お見舞い、餞別など何か特別な出来事に際して相手を想い贈る、世界中のあらゆる民族が行う習わしだ。日本でも、古くから物を贈り合う慣習がある。

さて、長崎県は波佐見町に、贈答用の化粧箱を製造する1960年創業の老舗『岩嵜紙器』はある。祖父から父、そして父からバトンを受けた三代目、岩嵜大貴さんは強烈な印象を焼き付けるようなオシャレで、斬新なデザインを求めて、顧客も消費者も惚れ惚れするような、こだわりのパッケージ作りに挑み続けている。

岩嵜紙器の歴史、
三代に渡る歴史

昭和54年。波佐見町の地で、紙材を用いた贈答用の化粧箱製造を家業とする家に生まれ、育った。

岩嵜「戦後、祖父が戦争から戻ってきてから、焼き物を都市部へ発送する仕事をしていました。当時は、昔からのスタイルだった藁で品物を包んでいましたが、段ボール素材ができて搬送がダンボールに切り替わった頃、紙材を使った箱屋としての会社『岩嵜紙器』を創業しました。それからは、地場産業である陶磁器の発展とともに、段ボールや贈答用の化粧箱、ギフトを製造する日々。現在、この界隈でパッケージのデザインや加工を生業とする会社は弊社を含めて3社ですが、当時は木箱屋さんなども含めて10社くらいはあったと思います。それだけ、贈答用に焼き物を買う人が多かったんですね。父親は、高校卒業して1〜2年して会社に入り、祖父と父が二人三脚で岩嵜紙器を大きくしていきました」

元々、工場は現在とは異なる場所にあったが、平成元年に今の地へ移ってきたという。

「規模を拡大するにあたって前の場所が手狭になったので、新たな場所を探していたそうです。そして、もともと窯元の工場だった土地が廃業によりそのまま残っていたので、買い取って移ってきました。私が小、中学生だった頃、学校から帰ってくると手伝いをしていました。紙を裁断機で刻んだり、揃えたり、その頃から一通りやってましたね」

地元の中学を卒業後は、諫早市の高校へ進学し、寮生活をしながら3年間を過ごした。そこから福岡へ進学で県を出ることとなる。

「先輩や親戚が諫早に出ていたという前例があったのと、近場で行きたい高校がなかった。地元の小中学の友達と一緒になんとなく上がるというより、親や友人と離れた、違う環境に身を置きたかったんです。そして、そのまま福岡へ進学し、その後は佐賀県にあるパッケージメーカーに修行として、1年半から2年くらい働いていました」

早くから親元を離れたが、いずれは帰るつもりでいた。3人兄弟の長男として、会社を継ぐ気持ちは、自然と芽生えていた。

「選択肢はそんなに多くないと思っていました。他にやりたい夢もなかったですし。父からは、家業を継ぐように言われたことはないですが、望まれていたとは思います。下には弟と妹がいますが、誰が継ぐという話をしたこともなかった。じぶんがたまたま長男で、早い段階で地元に帰ってきたということもあったので」

求めるは、クリエイティブ。
壁が現れれば、上るまで

佐賀県のパッケージ会社に入って修行をしていた時から、岩嵜紙器に入社するまで。家業に対して思っていることがあった。

「当時、段ボールの小箱と陶器向けの贈答化粧箱の大きく分けて2つを製造していましたが、そこには”パッケージデザイン”という言葉が、あるようでなかった。焼物屋が100%の顧客だったので、焼き物が割れずに体裁良く仕上げさえすれば良く、手の込んだ仕事というよりも作業がルーティーン化していました。いざ戻ってくる時に、自分にとってあまり面白い仕事ではなかったし、商品が役に立つとはいえ、それがカッコ良いという感覚、誇れるような感覚が湧きませんでした」

ただ、作業自体や紙のことは好きだった。自分がやるならもう少し面白くしたい。事業も、作り出す商品も。そういう気持ちで仕事に臨んだ。

「原材料は紙なので、焼き物向けのパッケージでなくても考え方と機械さえあればどんな形にも変えられる。その気持ちで、帰ってくると同時に製造現場ではなく、営業職として動き始めました。当時、営業はあったものの、有田や波佐見町内の焼物屋への営業だけだったので、そこには入らずに他の地域を開拓しに行くと父親に話しました」

これまで、製造の現場にいたのから一転しての営業職へ。不安はもちろんあった。

「いきなりやってきて風呂敷広げてやれるものでもない。少しずつ、地道にです。例えば、今まで関係してこなかった長崎市内のお菓子屋に営業に行ってみるとか。それこそ飛び込みなんかもしてました。そうして、出会ったお客さんの紹介で人脈が広がり、さらに多くのお客さんと出逢いながら、少しづつ焼き物以外の顧客を増やしていきました。そうすると、デザインの要望も高まるし、その分形状の難易度も上がる。いよいよ、今の設備だけじゃ作れないようになって、その都度壁にぶつかるようになってきました。まあ、今でもそうなんですが(笑)」

現在、会議室の壁に並んでいるのは、精巧かつ特殊な形状のギフトボックスばかり。もちろん、初めから作れるわけではなかった。

「今は、機械設備が増えて製造の手段も、技も増えたんですが、当時は四角い箱しか作れなかった。そこで、CADを使った設計技術を導入したのですが、それがきっかけで自由に設計ができるようになりました。同時に、それを量産するために新しい機械が必要になって、それを少しずつ増やしながら今に至ります」

壁は、いつでも、いつになっても現れる。だけど、それは新しいこと、新しい形状にチャレンジしたことによって生まれる壁だった。

「形状が変わるたびに問題が発生して、それを現場のみんなで工夫して少しづつ乗り越えて、その壁を品質で突破する。失敗もありますが、それが技術の肥やしとなって今の母体の基盤を支えています。今では、どんな形状の要望が来ても、あまりびっくりしないというか。難易度が高くても、みんな経験値がついているので、とりあえず受け入れる。生産力含めて、柔軟性がついてきたと思います」

原動力は、クリエイティブ。
相手を思いやり、貢献する

壁に怯まず、挑戦しつづける。その原動力はどこから生まれるのだろうか。

「ふたつ、あります。ひとつは、もともと地元で完結していた仕事が、だんだん厳しくなっていったということ。顧客の商品の売れ行きに比例する仕事だけでは、この先が怖い。なので、営業の範囲を全国へと広げざるを得なかった。都市部では、機械化の進んだ数多のパッケージ会社が犇く中で、地方の会社が参入するには独自性が必要になります。なので、機械では作れない複雑な形状に目をつけました。それは、人の手でしか作れないところがあり、そこを自社のキーポイントとし、”手の込んだ箱作り”ができるというのを得意分野にしていったのです。なので、1点目に関しては原動力というか、そうせざるを得ない状況で柔軟に変化させていった結果、今があるというわけです」

手の込んだ仕事をなるべく請け負い、挑戦したその先。「機械でできない仕事は、岩嵜紙器に」と顧客が選んでくれるようになっていた。個性的な物を求める時代の大きな流れも、その背中を押してくれた。

「そして、もうひとつ。先にも述べましたが、元々作っていた箱が自分が好きな感性やインスピレーションが活かせない、面白くないものに映ったことです。自分にとってそれは、”クリエイティブ”と呼べる物ではなかった。それを、なんとか自分で面白いものにしていこうという想いが強かったのです。商品もそうですが、会社自体も自分なりにこだわって、同業者とは違う方向性で魅せていこうというのがあって。それが、今も自分を突き動かす原動力になっていると思います」

3代目を引き継いだのは、35歳の時だった。プレッシャーは常に感じつつも、きちんと計画を立てて経営をすること8年。60名の社員を抱える、クリエイティブな会社へと変貌を遂げた。自分も含め、社員に対して大事にしていることがあるという。

「それは、自分達の都合を優先するのではなく、『貢献』の意識を持つということ。結果は、つねに会社の外で生まれます。なので、弊社がサービスを提供することで世の中に貢献するのはもちろん、例えば社員同士、同僚の間柄でも自分の都合や部署の都合で動くのではなく、貢献の意識を置いてお互いに助け合うという人間性の基本的な部分を大事にしています。ものづくりに関しての品質の前に、まず求めるところがそこにあります」

相手の喜ぶ顔を想像しながら、贈り物を選び、渡す。そこには、相手を慮る心意気がある。そこに使われる、人に喜んでもらえる最高のギフトパッケージを作る岩嵜紙器ならではの、大切にし続ける想いが垣間見えた。

「私も、誰かに贈り物を贈るのが好きです。ただあげる、というよりはサプライズが多いかな(笑)。でも、その感覚はパッケージメーカーとして、大切にすべきです。そういうのが、直に”惚れ込むデザイン”に反映できるのだと思います」

みせ、イベントについての詳細は、以下のそれぞれの記事をご覧ください。