東彼杵町の味噌を届ける若き三代目 大渡康平さん

文・写真・編集

東彼杵町の味噌と言ったら大渡商店

何はともあれ、まずはひとくち。大渡商店の味噌をそのままスプーンですくって、なめてみてほしい。味噌の豊かな風味と旨みに、ほんのりした甘み。塩分が控えめなこともあり、ふたくち、みくちと味見が進んでしまう。麦麹のツブツブは確かに見えるのに、食感は驚くほど口溶けがよくてなめらかだ。
ビニール袋にざっくりと入った味噌というより、おしゃれなビンに詰められているような。クラッカーやバケット、グリルした肉や魚にぬる、とっておきのペーストを口にしているようにも思えてくる。この味噌を出汁で溶かして飲むなんて。味噌汁って、なんて贅沢な料理なのだろう。

大渡商店の味噌の美味しさ。それはひとえに麹の健やかさにある。「この麹でつくる味噌の味が、父は好きだったのでしょう」と店主の大渡康平さん。康平さんの父は、大豆と麹を混ぜるかくはん機や、味噌を運ぶベルトコンベヤーなどを導入し、味噌づくりの効率化に励んだ。しかし、麹づくりだけは「モロブタ製法」という昔ながらの工程を残している。風呂釜のような大きな木箱で麦を一晩寝かせた後に、モロブタという浅い木箱へ。そこで、36〜48時間ほどかけて麦に微生物を繁殖させ、麦麹にする製法だ。

見て、触って、嗅いで、食べて。五感で麹の出来具合をチェック。仕込みの最盛期は、一度にモロブタ200枚近くの麹の世話をする。

「食べ物なんですが、生き物を育てているような感覚なんですよ」と康平さん。仕込み時期の康平さんの睡眠時間は1日2〜3時間。温度や湿度を常に気にかけ、モロブタが並ぶ「室(むろ)」という部屋へ1時間に1回程度は行く。まるで、赤ちゃんを世話しているような神経の使い方だ。「手間はかかるのですが。こうじゃないとできない味があると、僕は信じているので」。少しはにかみながら話す康平さんから、麹づくりへの強い信念が伝わってくる。大渡商店の味噌は塩分を控えめにしていることもあり、1〜2カ月の早期熟成だ。しかし、元気いっぱいの麹がしっかり働いて発酵させるので、ひとくちでハッとするような旨みのある味噌に仕上がるのだ。

換気扇と扇風機を使って、できるだけ自然に近い空気感で麹を育てる。

自宅の部屋から中庭を通って室へ移動する時に、体全身で温度と湿度を感じ取る。そうして、室に風を通すのか、麹の温度を高めるのかなどを判断するのだそう。

康平さんの父が知り合いの鉄工所に頼んでオーダーメイドで作ってもらった機材。

上からも下からも蒸気が入って圧力鍋になる。

麹と大豆を混ぜて1週間ほどたった美しい味噌。

麦や大豆は九州を中心とした国産のもので、塩は長崎の天然塩をブレンドしている。麦麹を使った麦味噌の他に、米麹と麦麹を使った合わせ味噌も作っている。

仲間と乗り越えた3代目の決意

九州豪雨で、福岡県朝倉市杷木地区に構えていた支店を失った。追い打ちをかけるように、11月、65歳の父が肝硬変で他界。激動の1年を終え、東彼東彼杵町でみその製造販売を手掛ける大渡商店の3代目、康平さんは覚悟を胸に2018年を迎えた。死後に知った父の本心、支えてくれた仲間への感謝-。さまざまな思いが詰まった店を守り抜いていくための決意。

康平さんが家業の手伝いを始めたのは6年前。社長だった父の武さんは、一度決めたら突き進む頑固な性格で、康平さんが経営について意見をしても相手にしてくれなかった。一つ屋根の下に暮らし、同じ食卓を囲んではいたが、自然と二人の会話は減るばかり。「母が間に入らないと会話が成立しなかった。最後まで僕のことや会社の今後をどう考えていたのか分からなかった」。康平さんは複雑な表情で振り返る。

そんな親子関係ではあったが、父は息子のことを信頼していた。母、喜美子さんは言う。「体調が悪かったこともあり、豪雨被害の前ごろから“もう康平に店を譲ろう”と話していた。愛情表現が下手だったけど、息子がかわいくて仕方がなかったんですよ」

父が一から手掛けた杷木支店が濁流にのみ込まれた昨夏。建物は傾いた状態で踏みとどまったが、とても営業できる状況ではなかった。被害の大きさは一夜にして経営危機に陥るほど。父はしばらく部屋でふさぎ込んだ。康平さんも絶望していた。「商売をやめろって言われてるのかな」

だが、ここで支えてくれたのが町内にいる康平さんの仲間たちだった。あらゆるネットワークを駆使して、杷木支店分の在庫を売りさばき、秋の仕込みにこぎ着けた。情に厚く、人付き合いを大切に生きてきた父は、息子の苦境を助けてくれる仲間が大勢いたことが、何ともうれしかった。「知らないところで人間として成長していた」。最後まで息子には伝えなかったが、妻には本音を吐露していた。

大渡商店の店内にて梱包や発送を手伝う仲間たち

目の前の危機を乗り越えた9月上旬、杷木支店の建物が完全に崩壊。時期を同じくして、父の体調は次第に悪化した。

腹水を取り除くための通院が月1度から2週間に1度に、10月に入ってからは毎週になり、14日に入院。康平さんは病室で、久しぶりに少しだけ会話をした。「正月にみんなで集まらんばね」。話題は先のことばかり。11月には杷木に行く約束もした。

だが、病魔は容赦なかった。「また来るけん」。10月30日に病室を出る際に交わした言葉が最後になった。31日夜に容体が急変、翌11月1日、帰らぬ人となった。「今でも自分勝手な人だったとは思う、でも…」。店や工場の大掃除をしていた年の瀬、康平さんは祭壇の方を見つめ、続けた。「いなくなって分かったけど、自分がやりたくなかった部分をおやじがやってくれてたんだなと」。悲しみ、怒り、不安-。父の死に際して、さまざまな感情が湧いたが、最後に残ったのは感謝だった。

父の死後、父がどれだけ店を大切にしていたか、自分に期待をしてくれていたかを初めて知った。「もっと話をしとけばよかった」という悔いは残る。でも、未来を託された27歳の目に迷いはない。父が残してくれた経営基盤、頼りになる仲間たち-。何よりも一度決めたら突き進む心の強さは父親譲りだ。

父が愛した創業約60年の店。それを守っていく自覚と責任が芽生えた今、以前よりも店のことを好きになっていく自分がいる。

長崎県の中央に位置し、お茶どころとして全国的に有名な東彼杵町。大渡商店のすぐ近くにも茶畑が広がり、その目の前には大村湾。日の光を受けて茶葉と波がキラキラと輝いている。温暖な気候と穏やかな海。風光明媚な東彼杵町はIターンの移住先としても人気がある。職人としてのこだわりを持ちつつも、人と接するのが好きだという康平さん。東彼杵町に根ざしてきた大渡商店の店主として、昔からの住民と新しい住民との架け橋のような存在にもなっている。

大渡商店は、前述したWEBサイト開設の他にも、東彼杵町の仲間たちとの新しい試みに挑戦しているところだ。大渡商店の味噌と名前をもっと知ってもらうために、今年の8月から手軽なお菓子として「味噌落花生」を商品化し、道の駅で販売を始めた。隣町の和菓子店とは、味噌を使った和菓子も考案中。地域の名産品同士のコラボ商品はきっと注目を集めるだろう。また、大渡商店の味噌に惚れ込み、その味噌にしてもらいたいと、自然農で大豆や麦を育んでいる農家さんもいる。

東彼杵町で唯一の味噌店として、康平さんは町内の小学校で味噌づくりの講師も務めている。康平さんは「味噌を嗜好品として高めていくというよりも、日常の調味料としての味噌文化を守っていきたいんです」という。その言葉が示す通り、大渡商店の味噌は1kg540円。国産の原材料を使った無添加の手作り味噌、さらに麹をつくる手間を考えれば、破格の価格だ。

購入し続けても負担の少ない価格、ひとくちでファンになってしまうほどの味わい。そんな大渡商店の味噌を、毎日テーブルに登場させたい。