陶器の大産地で個を貫く陶芸家夫婦 窯元『抱星窯』 小玉健策・恭子ご夫妻

長崎、佐賀県は代表的な陶磁器の産地である。二県にまたがり有田焼、伊万里焼、唐津焼、三川内焼、波佐見焼と五大の陶磁器が各々名を馳せる。素敵な器と出会うために陶磁器祭りへと足を運ぶ人も多い。400年以上前から続く歴史ある焼き物の町で、真摯に作品作りに向き合う素敵な陶芸家夫婦が東彼杵町に暮らしている。小玉健策・恭子ご夫妻だ。まず、ふたりの経歴を見ていただきたい。

●小玉健策さん:愛媛県出身。
大阪府で育ち、就職を経て岐阜県の多治見市意匠研究所に入所。

●小玉恭子さん:長崎県出身。
愛知県にある瀬戸市窯業訓練校に入学。

中部地方で活動していたふたりの陶芸家が出逢い、結婚を経て、1984年より長崎県の東彼杵にて築窯して現在に至る。一端ではあるが、これまで歩んできた創作人生について伺った。陶芸家として、ご夫婦としてのふたりの会話を楽しんでいただくとともに、暖かくユーモアな人柄を知っていただけたら幸いである。

世の中に流されず、背かず。
本当に自分の作りたいものを。

小玉健策(以下、健策)「愛媛生まれやけど、小学校上がるときに大阪に。父親がギャンブル依存症だったので、『子供には勉強させないかん!』という名目できたが、実はギャンブルがやりたかったようで(笑)。小学校の頃、全く勉強ができなくて工作の時間だけが好きだった。物を作ったり、描いたり。それがそもそもの始まり。それでも、普通高校に行って普通に就職して。就職はしたものの、27歳まで悩んでました、このままでええんかなと。働いてても、会社に馴染めなかった。そこで、一念発起して子どもの時に作ることが好きだった気持ちが繋がって焼き物学校に行ってみようと。軽い気持ちで、というか遊びに行くつもりで。2年間遊べるお金があったから(笑)」

一同(笑)。

健策「会社で鬱屈していて、とにかくこの2年間遊ぶ気持ちでなんとか精神状態を戻したかった。まあ、本当に遊んだんだけどね(笑)。勉強もせず。そこから、焼き物の街だから焼き物の会社に3年就職して、その間にこの人(恭子さん)と知り合って結婚した。そして、どうしようかということで、焼き物でもしようかという考えになった」

小玉恭子(以下、恭子)「当時は、高度成長期。どこに行っても仕事はあったの。仕事に行き詰まっても、ちょっと他でアルバイトでもしようと思えばすぐに転がり入ることができた時代でした」

NHKの朝の連続テレビ小説『スカーレット』のモデルとなった、信楽焼の女性陶芸家の草分け、神山清子さんは、ふたりが焼き物の道に入った頃にはすでに有名になっていた、そんな時代。長崎に来たきっかけは、なんだったのか。

健策「本当は関西、大阪で焼き物の仕事をしたかったけど難しかった。そんなとき、この人(恭子さん)のお父さんが空き家と窯とを用意してあるということで、住むことを決めた。窯と家とを用意しようと思ったら5年はかかる。それをいきなり揃ってる状態で。渡りに船だった」

恭子「それで、長崎移住を決めて、引っ越しをしているくらいに息子が生まれて」

健策「今の東彼杵の状態、他所から来た人が家を改築して。その走りやったんよ、僕らは。ちょっとええカッコつけさせてもろうたけど」

一同(笑)。

恭子「当時、世の中はバブルに入りかけた時で、みんながイケイケだった中で何でこんな田舎に来て生活を送ってるのかと、変人のように見られたね」

当時の東彼杵は、封建的で住みづらかったらしい。その上、時代の流れと逆行するかのような移住で、白い目で見られることもあったそうだ。そんななかで、移動は考えなかったのだろうか。

恭子「こういう仕事は土着性だからね。動こうと思ってもなかなか動けない仕事だから。幸い良い時代だったから、仕事に困ることはなかった。(焼き物の)大産地だったので、店からの大量発注で仕事をくれる。だが、仕事が舞い込みだすと、自分たちの作りたいものが作れなくなるという危機感で仕事を切ってきた」

健策「下請けの仕事だと、食うことには困らないよね。そればっかりやっとったらええんやから。でも、せっかく移住して土地と家と窯もったっていうのに、こりゃあ人生もったいないなと思って。それで、作りたいもの作るのが一番嬉しいことやから、自分の好きなもの作らなもったいないね、損やね、と思ってね」

波佐見の商社も、契約しに尋ねてきたことがあったという。しかし、そんな中ふたりには自分たちの強い意思があった。契約を切ってまでも自分たちの作りたい物とは何なのだろうか。

自分の作品を好きな人のために。
それが得であり、やがて徳となる。

健策「目標はあるよ。それは自分にとっての良いものを、自分が満足するものを作りたい。それは焼き物始めた頃から変わらずにずっとあります。でも、人のことをまるっきり考えてないわけじゃない。人に楽しんでもらいたい。料理とかで使って、ちょっとでも美しいなと思ってもらえたら本当に嬉しいことだと思います」

恭子「こだわる部分のどこを基準にするかは、自分の好きか嫌いかの判断で良い。ある程度は社会の流行も受け入れますよ。でも、根っこの自分たちが作りたいという線は崩さないほうが良い。ずっとやってきたから、自分の線というものがあるし」

健策「社会が求めているものと自分の出したいもの。これはつねにパーセンテージになってくるよね。お金に余裕がある時は個性的なものを作って良いわけよ。でも、今みたいに売れない時代に入ってくると、その割合も減って売れなきゃいけないと思って作る割合がどうしても多くなるよね。時代に合わせて割合を変えて行かざるを得ない。陶芸家であっても芸術家じゃないから」

恭子「これはずっと考えています。難しい。今はものすごく厳しいので、ある程度社会が求める時流を取り入れながら、私たちがやってきたことも出していかないといけない。購買者のことも考えながら、自分たちが生き残る道を探っています。若い人にも、年配に合わせてもダメですね」

健策「合わせれば当たるというわけではない。そのへんは適当にというか、曖昧というか。気楽にやらせてもらってる。いつの時代でも自分と感覚が合う人っている。そういう人に買ってもらうために、好きなことを出していくっていうのが得だよね」

好きなことを追求して自分の得を重ねることが、自然と他人からの徳も積んでいることとなっている。これは、創造する人間としてもっとも望ましい姿ではないだろうか。しかし、そうなりたいと願うものの、それが叶えられる人間がどれだけいるのだろうか。すべての“モノ作り”に悩む人に向けて、最後にアドバイスを頂いた。

恭子「今の若い子たちは、ものが売れないから振り回されてる。SNSの情報もあるし。でも、流行り物に飛びついていくばかりだと自分の方が見えてこないで、何も残りません。生き残りづらいです。良いものを持っているはずなのに、そこから出られずに終わってしまうんで」

健策「すごく難しく、我慢しなきゃならないけど、同じものを作り続けるのも良いんです。それが個性となるんですから」

恭子「どの世界でも飽和状態になる時がある。そこで、生き残っていけるかどうかは、自分のスタイルを揺るがされずに作っていくことが重要です」

みせについての詳細は以下の記事をご覧ください。
抱星窯(陶房・ギャラリー)

写真 : 小玉 大介 / 川崎 順平
記事 : 東 孔明
編集 : 森 一峻

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