スラッとした長身と、遠くから見てもすぐにわかるドレッドヘアーがトレードマークの堤豪輔(つつみごうすけ)さんは、明るく優しい人柄で町の人の人望を一心に集める苺農家だ。2021年に代々続く農家の当主となり、より良い苺栽培を探求し続けている。
そんな豪輔さんのこれまでの人生は、豪輔さんに大きな影響をもたらしたキーパーソンとの出会いと、日本だけに留まらないワールドワイドな体験でカラフルに彩られてきた。豪輔さんがどのような道のりを歩んできたのか、少しずつひも解いていきたい。
おだやかな青春時代
豪輔さんが東彼杵町里郷で生まれたのは1977年のこと。ある日の早朝に母親が産気づいたため病院へ向かおうとしたが間に合わず、家のすぐそばの坂道での出産となったそうだ。3人兄妹の2番目として育ち、小学校ではソフトボールに熱中。当時は近所の子供を率いるガキ大将タイプだったそうで「この時が人生のピークだったかも」と笑いながら豪輔さんは語ってくれた。
中学校ではバスケットボール部とブラスバンド部を掛け持ちし、トランペットを担当。家業が忙しい時期は手伝いながら、部活に勉強にと真面目に取り組み、成績は常に上位だった。高校ではバスケ部や新聞部などへ転部しつつも、穏やかな日々を送ったという。
やがて熊本大学工学部へと進学。元々興味のあった情報電気工学科(当時は電気システム工学科)を専攻し、勉強にいそしむ一方で、友人から誘われロック研究会に入会した。研究会では友人たちとハードコア系バンドを組みドラムを担当。毎日が音楽漬けとなった。
大学卒業後は大手電機メーカーの長崎支社へと就職、社内システム管理を行う部署へ。入社してすぐは楽しく仕事に励んだものの、狭く限られた部署で働くうちに喜びを見出せなくなり、興味ややりがいは薄れていった。
心を揺るがしたキューバ音楽と岡ちゃん(故・岡田浩典さん)
就職してからも音楽への熱は冷めることなく、あちこちのライブへ出かけていた豪輔さん。25歳の頃、とあるライブで演奏していたキューバ音楽のバンドに心を奪われた。メンバーはみんな日本人で同世代だったこともあり意気投合し、自分にはトランペットの経験があると伝えると「じゃあうちで一緒にやれば?」と一言。この言葉が豪輔さんの心に火をつけた。
豪輔さん(以下豪輔)「バンドが楽しそうに演奏してて、それでお客さんも楽しませるって最高やんって。それでステージに立てる可能性が少しでもあるなら、俺やってみても良いのかもって思ったんよね」
実際にキューバに行って音楽の腕を磨こうと決心した豪輔さんは、旅費を貯めるために節約生活をスタート。淡々とした毎日が少しずつ変わり始めていた。
そんな生活のさなか、知人から「波佐見にモンネ・ルギ・ムックっていうカフェがあるよ。そこの岡田さんって人が日本中を旅してたみたいだから行ってみたら?」と勧められ、ぜひ話してみたいと勇み足で出向くことに。
ただ、緊張からか最初は話せずじまい。しかし、3度目の来店で勇気を出してカウンターに座ったことがきっかけで岡田さんから話しかけてもらえた。豪輔さんはその後、何度もムックを訪れたという。
豪輔「ムックの人たちはいつも楽しそうで、全然壁がなかったもんね。とてもフランクに対応してくれた。すぐに心を開いてくれた感じやったなあ。岡ちゃんが旅先で出会った人たちと始めたお店だったから、誰とでも分け隔てなく接するような、そういう雰囲気があったんだろうね」
会社が休みの時は店を訪れながら、ムックの人たちと交流を深めていった豪輔さん。6年余り勤めた会社を辞め、与那国島へサトウキビ刈りを行うアルバイトへ2ヶ月出向いたあと長崎へ戻り、GWで忙しいムックを1週間手伝うこととなった。
それから豪輔さんはキューバへ1ヶ月滞在(詳しくは後述)。一旦帰国してからは再びムックで1年間働いて過ごした。あまりの楽しさに次の出発のタイミングが延び、岡田さんから「そろそろ行った方が良いよ」と背中を押されての旅立ちとなった。
ムックで働いている間、豪輔さんはそれまでの平穏な日々からは考えられないほど毎日笑って過ごしたという。その中で人との付き合い方や接し方、考え方など岡田さんたちから学ぶことはとても多かった。
豪輔「事あるごとに岡ちゃんはたくさんのことを教えてくれて。たぶん、今の俺を作り上げてるのは岡ちゃんたちとの楽しい時間じゃないかな」
いざ、世界をめぐる旅へ
話を1度目のキューバ旅に戻そう。与那国島やムックでのバイトを経て、旅費が貯まったタイミングで意気揚々とトランペットを抱えてキューバへと降り立った豪輔さんだったが、思いもよらぬ大きな言語の壁が立ちはだかった。キューバで使われているスペイン語をある程度は勉強したつもりだったが全く太刀打ちできず、苦痛を感じる旅となってしまったのである。
出発前に往復のチケットを購入していたこともあり、1度目のキューバ旅は1ヶ月の滞在ののち、帰国。現地で出会った日本人旅行者から聞いた世界各国のおすすめの場所を巡るため、改めて旅を仕切り直すことに。
ムックの岡田さんに背中を押され出発した2回目の旅では、本格的にスペイン語を勉強せねばとグアテマラにある日本人宿『Taka House(以下タカハウス)』へ。そこに併設されたスペイン語学校は現地の人を講師に迎えた質の高い教育が受けられるうえ、学費が安いと評判の施設である。
豪輔さんはタカハウスに4週間滞在したあと、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカを巡った。その後タカハウスに一旦戻りメキシコ、キューバ、ジャマイカ、ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリス、オーストリア、ハンガリー、カナダの旅へ。この時もトランペットを持ち歩いていたが、色んな人や場所に新たに出会うことの方が楽しくなり、途中で日本へ送り返したそうだ。
帰国後はみたびムックへ。岡田さん、鬼塚さん(現ムックオーナー)が住む家に住み込み、建物や備品の補修を行う仕事をして1年を過ごした。
妻・彩子さんとの出会い
そして豪輔さんは3度目の旅へと出発。中米やカナダを巡っていたところ家族から「兄が結婚するから帰ってきて」との連絡が入った。事情を聞けば婿養子になり家業を継ぐつもりはないとのことだった。
それなら自分が農業を継ごうと帰国を決意。しかしその前にお世話になったタカハウスのオーナーにお礼の挨拶を、と立ち寄ったところ当時宿の管理人をしていた、後に妻となる彩子(あやこ)さんとの出会いを果たした。
タカハウスでしばらく生活を共にするうちに、彩子さんの明るくて面倒見がよく料理上手な人柄に惹かれた豪輔さん。一旦長崎へ戻って「自分が兄の代わりに跡を継ぐから半年待ってほしい」と家族を説得し、ペルーを旅していた彩子さんと現地で再会。2人で10ヶ月ほどかけて南米を巡った。
やがて2013年の9月に帰国し、その年の12月に結婚。2014年には長女が生まれ、その数年後には長男も授かり、子供たちはすくすく元気に育っている。
自分なりの苺をつくっていく
東彼杵町に戻り、父親のもとで苺栽培を始めた豪輔さんだが、農業を継ぐことには全く抵抗はなかった。
豪輔「農業をやってみたいっていう気持ちは元々あって、兄が結婚したので自分がやれるじゃん!って。農業は頑張った分だけダイレクトな返しというか実りがあるのが直接の喜びみたいな、そんなところが楽しいと思う」
日々大きなやりがいを感じ、身をもって苺栽培を学ぶなかで2021年に父親から当主を引き継ぐこととなった。
豪輔「苺の栽培に対してはまだ発展途上ってこともあって、自分の中では。今までは親がやってきた流れに沿ってきただけやったけど、今後は自分自身で全部把握して、一貫して工夫をこらしながらこの先どれだけできるかっていうのは見てみたいかな」
「もうすっかり旅から農家モードに変わったよ」と語った豪輔さん。まだまだ人生の旅は長い道のりだが、彼が進んでいく先にはどんな素晴らしい光景が待っているのだろうか。
Bon voyage、豪輔さん!
「こと」の記事につきましては、以下の記事をご覧ください。