いちご農家に生まれた豪輔さんが巡った、世界の旅。

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カッコ良いドレッドヘアーが似合う堤豪輔(つつみごうすけ)さんは、東彼杵町で苺栽培を行う農家の当主である。そして日々農作業を行う一方で、私たちくじらの髭を運営する『一般社団法人ひとこともの公社』理事の一員としての活動も行っており、町の拠点づくりに尽力してきた。

そんな豪輔さんは、世界各国を巡ったバックパッカーでもある。キューバやメキシコなどの中米を中心に、カナダ、ヨーロッパにも訪れたという。豪輔さんが旅の中で体感してきたことを今回のインタビューでじっくりと伺った。

初めての世界へ

豪輔さんが初めて旅立ったのは29歳ごろのこと。当時心を奪われていたキューバ音楽の演奏家になりたいと、トランペット片手に本場キューバへと向かった。しかし思いもよらぬスペイン語の壁が立ちはだかり、心を折られてしまう。

ただ流れていく時間をやり過ごす中で、たまたま出会った日本人旅行者から世界各地のおすすめの場所の数々を聞き「次回は教えてもらったところを周ろう」と旅を仕切り直すことに。出発前に往復のチケットを購入していたため、1度目の旅は、1ヶ月での帰国となった。

妻の彩子さん、子供たちと

帰国後はアルバイトに励み、世界一周をもくろんで2度目の旅へ。今度はきちんとスペイン語を学ぼうと、スペイン語学校を併設しているグアテマラの日本人宿『Taka House(以下タカハウス)』へ4週間滞在。旅をする上で困らないほどの会話ができるまで上達した。宿のオーナーのタカさんは相当の変わり者で面白い人だったが、豪輔さんのことをよく気にかけてくれたという。

そのあとエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカへ。その後は再びタカハウスに戻り、3週間スペイン語を勉強。それからメキシコ、キューバ、ジャマイカ、そして再びメキシコに戻った際、治験で数十万稼げる話を聞きつけ、旅先で仲良くなった男3人でヨーロッパへ飛んだ。

ベルギーから上陸し、オランダを通って治験の実施場所のあるドイツへ行ったものの、事前検査は不合格。別の治験が行われていたロンドンでも不合格となり、せっかく来たのだからとオーストリアとハンガリーを観光することに。その後は別の友人を頼ってカナダへ出向いた。

ドレッドヘアーと編み物と

豪輔さんのトレードマークであるドレッドヘアーが生まれたのも、この旅のさなかのことだった。グアテマラの田舎にある美容室でパーマを当てたものの、しばらくすると襟足が絡まりだしてきた。この頃にはカナダに渡っており各地をキャンプして巡っていたが、場所によっては衛生環境が整っておらずシャワーを浴びられないことも多かったという。

汗や汚れでさらに髪が固まってしまい困っていたところ、たまたまドレッドヘアーの人がかぎ針を使って髪を直すシーンに度々出くわした。そこで「思い切って全部ドレッドヘアーにしてしまえ」と心に決め、時間をかけて自分なりにドレッドを作っていった。

豪輔さんがイメチェンして少し経ったころ、編み物が得意な日本人女性と旅先で知り合った。器用に作品を編み上げていく様子に興味を持ち「ドレッド用のかぎ針持ってるから、編み物を教えて」と依頼。次第に編み方を覚えていった。

そのころ、日本では東日本大震災が発生。豪輔さんは当時メキシコにいたが「自分に何かできることを」とライターケースなどの小物を道端で販売し、稼いだお金を義援金として日本に送ることに。毎日のように沢山の作品を作るうちに腕がどんどん上達し、旅人や地元の人たちからの注文が絶えずやってくるほどの有名人となった。

当時住み込みでアルバイトをしていたカフェでも「編み物教室をやってみたら?」と提案があり、実際に教室を開いてみることに。そこでもお客さんの反応はかなり上々で、自分にも編み物を教えてほしいと次々に乞われるほど大評判だった。

タカハウスでの愛しい日々

いったん帰国して1年ほど日本で過ごした後、3度目の旅へ。編み物をしながら中米やカナダを巡る最中に兄が結婚するとの連絡が入った。長男である兄が婿養子になるとのことで自分が農業を継ごうと心に決めたが、帰国する前にお世話になった人のもとへ挨拶回りをしたいと思い立つ。

そこでグアテマラのタカハウスを訪れた豪輔さんは、当時宿の管理人をしていた彩子(あやこ)さんと出会う。彩子さんは興味のあったオーガニックを学ぶためにキューバへ旅立ったあと、スペイン語を学ぼうとタカハウスに滞在し管理人として雇われているとのことだった。

ちなみに、ふたりは出会う前から互いのことを知っていたという。豪輔さんは「今のタカハウスには料理上手な管理人がいるらしいよ」という話を、彩子さんは旅先で仲良くなったご婦人から「豪輔くんっていう人に編み物を教えてもらったのよ」と聞いていたそうだ。

編み物の注文を数々抱えていた豪輔さんは、全て完成させないことには日本に帰れないとタカハウスにしばらく滞在することに。共に過ごすうち、豪輔さんは彩子さんの明るく聡明で面倒見がいいところに、彩子さんは毎朝自分のために朝食を用意し心から安心させてくれる豪輔さんの人柄に惹かれていった。

その中で豪輔さんは編み物のiPodケースを、彩子さんは木彫のミニチュアタカさん人形を贈り合った。彩子さんいわく「できた人形を見て豪輔は『わあ!』ってすっごく喜んでくれて。いつでもどこでもタカさん人形と一緒にいた(笑)」とのことだ。

やがて豪輔さんは結婚式に参加するため一旦帰国。「自分が農家の跡を継ぐからしばらく時間が欲しい」と説得し、旅へ戻った。やがてペルーで再会した彩子さんと共に10ヶ月かけて南米を巡り、2013年に帰国。すぐにふたりは結婚することとなった。

世界中を巡る旅を経験して、豪輔さんの考え方や価値観に変化はあったのだろうか。

豪輔さん(以下豪輔)「旅する中で思いもよらないようなつらい状況に何度も見舞われたりして。そんな厳しい状況に身を置いたことで、なんでも来い!っていう境地になったかな。やけん門前払いはせずに、一度は引き受けてみるみたいな。色々と何に対しても敷居が下がったかもしれんね」

地元・東彼杵町のこと

東彼杵町で代々続いている農家を継ぐこととなり、いちご栽培に打ち込んでいる豪輔さん。元々興味のあった農業の仕事は「頑張っただけ成果が上がるのが嬉しい」と日々大きなやりがいを感じているという。私生活では彩子さんとの間に2人の子供を授かり、子供たちはすくすく元気に育っている。

その一方で、長崎県内外の大きな拠点となっている『Sorrisoriso 千綿第三瀬戸米倉庫』やその周辺施設の設営などにも参加。それがきっかけとなって『一般社団法人ひとこともの公社』理事の一員となり、町づくりの一助を担っている。また、彩子さんが仲間と3人で運営し、千綿駅舎内に店舗を構える人気の花屋『ミドリブ』の名付け親にもなったそうだ。

豪輔「東彼杵での仲間たちは『新しい時代だ!』って感じがするね。設営に関わったときは今のようにすごいことになるとは正直思ってなかった。自分は仲間よりも少し上の世代だから、あまりあれこれ口出しするよりも“今後を見守っていきたい”っていうスタンスかな。もちろん、誰かが困ったときや大変な時は動きたい、手伝いたいって気持ちはあるよ」

「ひと・ところにとらわれることなく、広い視野をもって旅するように生きていけたら」とも語ってくれた豪輔さん。この先、どんな道のりが広がっているか誰にも分からないけれど。豪輔さんはきっと、大切な家族や仲間と共に楽しい人生旅を歩んでいくことだろう。

「ひと」の記事につきましては、以下の記事をご覧ください。