身を粉にしてもへこたれない南島原市で育った丈夫な体に感謝
平会長は昭和17年生まれ。中学を卒業後は実家の水稲や果樹園の手伝いをしていましたが、親の代わりに家計を支えることになると、割のいい林業に出稼ぎへ出ました。昼はチェンソーで木を切って、夜は三輪自動車で長崎の材木市場まで運ぶ日々。
人の3倍ぐらいは働いて家族の命を繋ぎ、何とか3人のきょうだいを大学にまで行かせることができました。それでも借金は山ほど残り、36歳の時に資金繰りのために始めたのが養豚業でした。
衝撃的な健康豚の飼育システム「SPF豚」
当時の養豚業は小面積による多頭飼育で利益を上げることが普及されていました。太く大きく育てるには薬剤や抗生剤などの投与は不可欠でした。駆け出しだった平会長もこれに倣うより他はありませんでしたが、常に疑問を抱いていたそうです。
「こがんと消費者に食わせてどがんすんとかと思いながらも、私たちも生活せにゃいかんから」
とジレンマに陥りました。そんな折、飼料会社の営業マンからSPF豚の存在を聞きました。SPFとはSpecific Pathogen Freeの略で、SPF豚は豚の発育を邪魔する特定の病原菌を排除した豚をいいます。わかりやく言えば、健康な豚を飼育するシステムであり、薬品を使わなくても順調に太り、しかも豚の特性を生かした味が出るというもの。それは養豚の常識を覆す革命的な話でした。
安心・安全、そして未来のために
「SPF豚を知り、情報収集に時間を費やして、養豚を始めて10年目にSPF豚へ切り替えた。九州では私たちが初めてだったかな。ただ、順調には進まんかった。借金もあったもんだから。新しいことは恐ろしかけんせんと出入業者も離れてね。行政もSPFってそいなんですかって、前例がなければ奨励せんとですもんね。金融機関とも喧嘩して(笑)。銭をからんば事業はできんでしょうからこっちも必至やった」
と平会長は話します。社名と銘柄には、平会長の名と同じく働き者だった叔父の名を1文字ずつ採用して「芳寿」と名付けました。
「小さか町から、まさに革命やった(笑)」
当時、日本SPF豚協会の認定を受けるには非常に厳しい条件をクリアしなければならず、すでに豚を飼育していた芳寿牧場が認証されるのは特例のことでした。衛生管理に自信も持っていた平会長が、その熱意を買われたのです。自信は過信ではなく、導入から5年経過しても病気の豚を全く出さなかったことで証明してみせました。
「一般の豚からの切り替えでも、管理さえよかればうまくいくということ。新しくした豚よりも成績が上がって、効率も良いと協会からも注目されるようになった」
と平会長。その数年後には、SPF豚普及奨励賞を受賞しました。今回は特定病原菌不在豚の徹底した衛星管理をされているため、飼育場には入室が厳しく撮影はできませんでしたが次回訪れた際は是非とも飼育現場も見させていただきたくなりました。
気心しれた宮井社長の就任もそうですが、3年前にはお孫さんが働きたいと入社してくれたこともうれしいニュースです。熱い思いは確実に紡がれていきます。
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