時代に流されない人気店の秘密
新型コロナウイルスの感染拡大により、多くの飲食店が苦境に立たされている。2020年においては、飲食店事業者の倒産件数が全国で780件と過去最高数を更新し、外食大手でも閉店や業態転換を行う企業が相次いだ。今もなお厳しい状況が続いている昨今において、変わらず賑わいを見せる人気の居酒屋がある。それは、大村駅前にある『駅前酒場 肴や』。できることを形を変えながら行い、常に明るく笑顔でお客に向き合う店作りができているからこそ成せることだろう。大将の前田匠さんは語る。
前田「二人兄弟なんですが、母親は女の子が欲しかったみたいで。それで、子どもに料理を教えたかったらしいんですが、兄は料理に全く興味がなくて(笑)。呼ばれてもキッチンに行かない兄を見て、自分が習っていたんですよね。当時は自分もたいして興味がなかったけど、母のことが可哀想だなと思って渋々聞いていました」
そんな前田さんが、今となっては居酒屋の大将として酒と肴でお客を喜ばせているのだから、人生とは不思議なものである。歴史を紐解くとともに、その人気の秘密について探ってみたい。
料理で人を喜ばせたい。
強い想いが、現実を引き寄せる
料理が好きになったきっかけは、幼少期から。だが、それは母の期待に応えるべく、兄に代わって料理を教わったことが始まりだった。それからは、共働きだった両親を支えるため自らスーパーに行って買い物をし、料理を作っていたと言う。
前田「確か、小学校4年生くらいからそういうことをしていましたね。その時の記憶は、鮮明に覚えています。それが、根本的な”料理を楽しむ”始まりだったと思います」
生まれは東京都杉並区、育ちは世田谷区。専門学校を卒業し、社会人になり、結婚。それまでは都外へ出ることもなく、当たり前のように都会の喧騒の中で暮らしてきた。
前田「居酒屋との繋がりは、専門学校に行っていた19歳の頃からです。アルバイトとして働き始めましたが、学校を卒業した際に一度やめました。心理学の福祉心理を専攻していたので、卒業後は介護の仕事に就くことにしたんです。 専門学校まで入れさせてもらった手前、就職しないと何だか親に申し訳ないと思って…」
後ろ髪を引かれつつ、働いていた居酒屋を辞めた前田さん。だが、介護の仕事をしていても居酒屋で自分が美味しいと思う料理を考案し、酒と肴で人を笑顔にさせるという夢が消えることはなかった。その想いが、居酒屋の大将の道へと進む運命を引き寄せることとなる。
前田「就職して半年もしないうちに、以前働いていた居酒屋から連絡がありました。引き継ぎで入った子が突然辞めることになり、戻ってきて欲しいと。それで、介護の仕事と掛け持ちでも良いならということで再び働き始めたんですが、働いているとやっぱり居酒屋の仕事は楽しいと改めて感じるようになったんです。介護士としては2年半働いていたんですが、自分は居酒屋で働こうと決意し介護の仕事を離れることにしました。それから29歳で結婚するまで、東京の居酒屋で働きました」
この運命は、もはや必然のことだったのかもしれない。そして、あることがきっかけでこれまで縁もゆかりもない長崎の地に移住するという運命をも手繰り寄せることになるのだが、その話はまた後ほど。
前田「母は、今も東京にいます。たまに、フラダンスを踊っている、とても反応に困る動画を唐突に送ってきます(笑)。長崎で自分のお店を出してから、何度か食べに来てもらいました。美味しいと言ってくれますが、どうでしょう…多分嬉しいという思いも大きいと思います。自分が親の立場になってみて初めて、その気持ちをわかるようになりました。今、子どもが卵焼きを作るのにハマっているんですが、それが美味しくても美味しくなくても、『美味い!』ってなりますからね(笑)」
子どもが、親に喜んでもらう一心で料理を作る。「中学生の時に、家族のために何か作っても、美味しくはなかったんでしょうけどね」と笑って話す氏だが、その味はきっと愛に満ちた美味しいものだったに違いない。
自分の店を持つという夢。
長崎の地にて、実現させる
さて、東京都民として生きてきた前田さんが、これまで関係のなかった長崎の地へと移住したきっかけとは、いったい何だったのだろうか。
前田「妻が、長崎県大村市の出身だったんです。東京で知り合い、結婚して。それから2年ほど経って妻が妊娠しました。そこで、東京でこのまま生活するよりは、三姉妹の長女なので地元に戻って生活をした方が良いという話になり、自分は自分で次男だし、サラリーマンでもない。そのまま、東京にいても、大村にいてもやることは変わらないないうことで、夫婦揃って大村市へ移住してきました」
東京に居続ける理由はない。居酒屋で料理を続けられるのであれば、どこでやっても同じ。人や土地にこだわらず、夫婦がともに安心して暮らせる環境下で新たな生活をスタートすることを決めた。
前田「これまで、長崎には遊びにきたことはありましたが、暮らしたことは当然ありません。ただ、長崎の方が商売しやすいと思ったんですよね。東京出身の私が、東京でお店をやっても、その特色って出しづらい。そもそも、東京という街はいろんな地方からの人が寄せ集まり、自分たちの色を出し合う場所だと思っています。その中で、東京で東京出身の自分が色を出そうとしてもなかなか難しい。それよりも、東京で培ってきた経験をそのまま長崎で活かして営業していく方が、自分の色を出しやすいのかなと思って。その結果、県内のお店では珍しいラインナップだったり、仕入れを行ったりして私なりの色というものが出ていると自負しています」
自分の色を出すというのは、なかなかに難しい。『私』というのは、常に他人や、街、自然が織りなす環境で形成されている。当たり前の環境下にいると、刺激を受けることも、刺激を受けようとする気持ちも薄れてくるだろう。「外に出た方が、色って出しやすいのかなと」。そう語る前田さんの話は、本質を捉えている。
前田「実際に長崎に来て、2年くらい『食酒処 信之』という居酒屋の本店で働きました。そして、今のお店のある場所に2号店となる『駅前 信之』を出店するという話が出て。立ち上げ当初は別の人間が任されましたが、いずれ自分に話が回ってくるだろうと思って予め自分のメニューを考えていると、案の定そうなりました」
駅前信之で5年間働き、そのまま同じ場所で『駅前居酒屋 肴や』としてリニューアルオープンして4年間、大村駅付近にある人気居酒屋として経営を続けてきた。9年もの間、オーナーである信之のマスターは、その経営方針にはいっさい介入してこなかったという。
前田「原価率と売り上げを報告して、それが問題なければ何をやっても自由でした。なので、駅前信之だった当時から仕入れ方法とかお酒のラインナップも全部変えて本店と全然違うお店作りをしていました。それだけ、”任せる”っていうことがすごいと思いますね。自分が経営者側に立ち、新しい子が育って店を任せられるかといったら、任せたとしても多少は介入する気がします。ですが、(信之マスターは)ノータッチでしたもんね(笑)。しかし、逆にプレッシャーではありました。何も言われない分、数字だけはちゃんと残していかないといけないと思えたんで」
経営者と聞くと、普通はその店の大半の方針に介入するか、もしくは他店舗を分解していくという傾向がセオリーではないだろうか。そのなかで、社員の独立を促して排出する経営方針は経営者の人柄が大きいのだろうが、なぜ独立を促されたのか。
前田「もともと、信之本店に入るときに『将来、自分の店をやります』というのを予め言っていたんですよ。それで、実際の働きぶりを数字で見てくれていて、やれる自信があるならということで打診してくれたんでしょう。もともと、独立する人を多く輩出していましたし、だからこそ私に対してもスタート当時から独立の背中を押してくれていました。信之スタイルだと思います。女将さん的には、私を外に出したくなかったそうで(笑)、信之で働き続けて欲しかったらしいですけど」
都市から来たからこそわかる
地方で暮らすということ
信之本店で働き、2号店の駅前信之を任され、駅前酒場 肴やをオープンさせて。そうして、長崎に来てかれこれ10年以上の歳月が立った。すっかり、長崎人へと染まった前田さんだと思うが、この地で暮らす心境はどうだろうか。
前田「良いですよね、長崎。住みやすいと思います。完全に商売感覚ですけど、家賃は安いし、食べ物も美味しくて安いじゃないですか。あと、農家さんとの距離が近いのも、すごくやりやすいです。新鮮なものとか、新しいものを使ってみてくださいと言う声もいただいて。また、大村は飛行場が近いというのが大きいですよ。例えば、普通なら3連休を取らなきゃいけないのが、2連休して3日目の夜にはお店を開けられますから。サッと行って、サッと帰ってこられるありがたさにホッとします。空港に着いた時点で帰ってきたと思えるのが、大村の良さじゃないですかね」
物理的な距離は、もちろんある。都市部の方が物は手に入りやすいし、サービスも多い。何でも揃っていて、すぐに心の隙間を満たしてくれる。だが、ずっと都市部で育ってきた氏にとって、距離というのは大した問題ではないとバッサリ切り捨てる。
前田「東京にいた人間が、長崎で暮らすのは買い物とか不便じゃないかってよく言われるんですよね。でも、電車に3~40分近く乗って渋谷や新宿なんかで買い物するのと、車で1時間ちょっとで福岡へ買い物に行くのとは、あまり変わりません。
また、地方でも都市部に住む方が良いのではという意見もありますが、では仮に福岡に住んだとして、便利だといっても中心部にいたらいたで人混みに嫌気が差すと思います。正直、東京の世田谷辺りに住んだことがある人は、他のどこの場所に住んでも不便なことには変わらないんですよ。付近に必ずコンビニがあり、電車に乗ればすぐに渋谷へ行けるので。その便利さを知っていると、大村に住むことと福岡近辺に住むということは、等しく不便なんで。なので、何が不便かというネガティブな議論をするよりも、その土地に住むことでしか感じられないものに価値を見出すことが個人的には良いのかなと思います。なので、アルバイトで働く子たちも東京に行ってみたいという憧れを聞くんですが、一回行ってみるのも良いと思います。離れたら離れたで、地元の良さが改めてわかりますから」
人間には二種類のタイプがいる。『土の人』と、『風の人』だ。そのどちらに優劣がつくことはなく、どちらの人間になっても良い。いつだって、どこに住もうが隣の芝は常に青く感じられるものだ。ただ、今の自分が暮らす場所にどれだけ深く関心を持ち、愛せられるかが、その地で幸せに生きていくヒントなのかもしれない。
自分が楽しんでいる。
だから、周りも楽しませられる。
前田「改めてルーツを紐解いていくと、面白いですよね。親から料理の”とっかかり”を学んだことが、今に活かされている。そして、東京で魚料理をメインとする居酒屋で働いてきたおかげで、焼酎文化が根強い長崎の地で日本酒をメインに料理を組み立てるという独自の色を出せ、魚が美味しい長崎だからこそ、そのスタイルが地元の人にも受け入れられる。なんだか、運命を感じます。”来るべくして、来ている”と。大村市の会員制ワーキングスペース『Scola(スコラ)』の内海さんと話をしていて、『匠くんは、居酒屋のアカデミーで育っている。居酒屋の匠だ』と言われたことがあります(笑)。ほかの場所では修行していないので居酒屋しかできませんが、居酒屋人としてはアルバイトから始まり、東京の居酒屋、長崎の居酒屋で働いて、独立して。その道は20年を超えました。人生の半分以上を居酒屋で働いています」
人生の半分を居酒屋に捧げるほどの、生粋の居酒屋人。その姿勢は、職人といっても過言ではない。そんな前田さんが行う仕入れは、他の人が真似できないほどに情熱的で、拘り抜く。そのため、メニューが日によって変わるのもご愛嬌。寧ろ、一期一会の肴と、酒と、空間と出逢えられれば、また店へと足を運びたくなるものだ。
前田「他の店のマスターに、メニューが多いから”名物”を作れと言われることがあります。名物を作れば仕込みもマニュアル化して楽になるし、お客さんもそれ目当てで呼べるからとのことなんですが、楽しくないんですよ(笑)。飽き性なので、同じものを作り続けるのが苦手なんです。また、仕込みの楽さを取るよりも、お客さんに楽しんでもらえた方が自分も楽しい。そして、自分が楽しんでいないと、また、お客さんを楽しませることもできないと思うんです。だから、インスタグラムでも告知している通り、自分が一番仕入れを楽しんでいます。コロナ禍の状況になって、その気持ちはより一層強く感じます。スタッフが苦しいながらも楽しんでいるお店はお客さんも戻ってきているし、仕入れを行っている時に辛い顔をしているスタッフの店は、厳しいと聞きます。”自分が楽しむ”というのが、一番良いんじゃないかと思います」
酒場は、ただお金を落として入りびたる客の溜まり場ではない。交流や学びの宿り木だ。私たちはその木の上で憩い、出逢い、その場限りの幸せなのひと時を過ごす。何かを語り、何かを与え、何かが生まれるその場に、見ていて幸せになれる酒と肴がある。それらが一致した瞬間に、大将と客と隔たりないお互いの喜びがあるはずだ。そんな空気作りを、何よりも大事にしているお店の酒や肴が、不味いはずはない。
みせ・ことについての詳細は以下のそれぞれの記事をご覧ください。