「勇太くん」と慕われる人懐っこい笑顔の秘密。FUSE(ヒューズ) 代表 川浪 勇太の物語

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インタビュー会場に現れた川浪勇太さんは、「どうも!」と人懐っこい笑顔を向けた。笑うと目尻がくしゃっと下がり、その場の空気を一瞬で和ませる。川浪さんは長崎県松浦市を拠点に活動する映像クリエイターであり、地域を巻き込んだ「松浦マーケット」の仕掛け人でもある。


川浪さんの周りには、いつも自然と人の輪ができる。老若男女問わず、誰もが「勇太くん」と呼び、慕っている。しかし、その太陽のような笑顔の裏には、想像を絶するほどの孤独と葛藤に満ちた半生が隠されていた。
川浪「昔はね、本当に暗かったんですよ。」
そう語り始めた彼の物語は、光と影、出会いと別れ、そして再生のドラマに満ちていた。川浪勇太という一人の男は、いかにして形作られていったのか。その軌跡を追った。

孤独と絶望の中にいた少年期

川浪「生まれつきの病気で、血友病なんです。」
川浪さんの物語は、この一言から始まる。血が固まりにくいこの病気は、些細なことで関節内に深刻な内出血を引き起こした。野球をすれば肩が腫れ上がり、少し走れば膝が動かなくなる。当たり前の日常が、彼にとっては常に怪我との隣り合わせだった。
川浪「毎月のようにどこかが痛くなって、学校も休みがちでした。体育の授業はいつも見学。みんなが『休めていいね』って言うけど、それがすごく辛くて。」


治療の為、幼い頃から一人で福岡の病院に入退院を繰り返した。まだ都市高速もなかった時代、松浦からの道のりは遠く、幼い心にはひたすらに孤独だったという。入院した病室のベッドから見えるテールランプの光。それは故郷にはない都会の光であり、川浪さんにとっては寂しさを増幅させるだけのものだった。
家にいても孤独は続いた。学校を休んでいる間、聞こえてくるのは鳥の声と、遠くから響く運動会の練習の音。自分だけが取り残されたような感覚にさいなまれ、何度も「死にたい」と思ったという。


川浪「どうやったら死ねるかなって、本気で考えてました。でも、リビングで死んだら迷惑がかかるな、とか。風呂場で死のうと思っても、死んだ後が裸なのは恥ずかしいな、とか思ってやめましたけど。」
冗談めかして笑うが、その言葉の奥には、誰にも言えない痛みを一人で抱えてきた少年の姿が透けて見える。このどうしようもない孤独と、人との繋がりへの憧れこそが、彼の人生の原点となった。

ゲームが繋いだ世界と自己肯定の芽生え


転機は突然訪れた。親戚の家で出会ったスーパーファミコンの「マリオカート」。病気で外で遊べない川浪さんにとって、それは衝撃的な面白さだった。
川浪「これを買ってくれって、親にものすごくお願いして。家でゲームをやるならって、許してもらえたんです。」
そのマリオカートが、閉ざされた世界に風穴を開けた。「うちにマリオカートあるんだけど、やらない?」勇気を出して友達を誘うと、川浪さんの家に仲間が集まるようになった。
川浪「運動はできないし、みんなに勝てるものが何もなかった。でも、ゲームだったら俺が一番練習できる。初めて、みんなより上手になれたんです。」
対等に、そして心の底から笑い合える仲間。ゲームという共通言語を通して、川浪さんは初めて「自分の居場所」を見つけた。画面の中で「痛え!」「投げんなよ!」と叫び合ううちに、自然とコミュニケーションが生まれ、心は少しずつ明るさを取り戻していった。

バンド活動と仲間の絆、そして挫折

15歳の頃、テレビで見たロックバンドGLAYに衝撃を受け、川浪さんは音楽の道にのめり込む。「バンドやろうぜ」ゲームで繋がった仲間たちと、今度は楽器を手にした。
川浪「現実世界で、友達と同じ空間を共有して、同じ汗をかく。それが俺にとっての青春でした。」
しかし、その青春は長くは続かなかった。家業である「川浪産業」で働きながらのバンド活動。楽器を演奏すれば、病気を持つ彼の肘や膝は悲鳴を上げた。練習すればするほど、仕事に穴をあけることになる。「仕事をなめるな」ついに父からそう告げられ、川浪さんはバンドをやめる決断をする。ようやく手に入れた仲間との一体感、青春そのものを手放さなければならなかった。その夜、川浪さんは一人で泣いたという。再び訪れた挫折と孤独。しかし、この経験が後の人生を大きく動かすことになる。

家族の絆とクリエイターとしての再出発

追い打ちをかけるように、家業は倒産し、両親も離婚。川浪さんの周りの世界は次々と形を変えていった。暗い雰囲気に包まれていた家族を救ったのは、姉に生まれた新しい命だった。
川浪「甥っ子が生まれたら、漫画みたいに家族が明るくなったんです。『子は宝』ってこういうことなんだなって。」


そんな中、川浪さんは現在の奥様と出会う。「都会の女」という第一印象から一転、「二目惚れ」で結婚。孤独だった川浪さんの人生に、温かい光が差し込み始めた。


バンドをやりながら映像を撮って遊んでたノウハウが、新たな道を開く。友人の結婚式の映像を制作したところ、大きな評判を呼んだのだ。
「映像クリエイターとしてやっていこう」挫折の末に見つけた新たな表現方法。彼は「FUSE」を立ち上げ、カメラを手に、クリエイターとしての道を歩み始めた。

町おこしへの挑戦と松浦マーケットの誕生

川浪「町を盛り上げれば、自分の仕事も増えるんじゃないか?」
そんな発想から、彼は仲間と町おこし団体「NEW WAVE-Fukushima event crew -」を設立し、音楽フェス「島フェス」を企画。しかし、その熱意はまたしても空回りしてしまう。
「俺はこんなに頑張ってるのに、なんで誰もやってくれないんだ」気づけば、かつての自分と同じように孤立していた。その失敗から学んだのは、「自分が、自分が」ではなく、「みんなで楽しむ」ことの重要性だった。


そんな彼に新たな光を見せたのが、地元の先輩に招待してもらった「神戸コレクション」だった。初めて新幹線に乗って、遠くへ行き、何万人もの観客が熱狂する光景を目の当たりにし、「これを故郷で実現したい」と強く思った。

その想いが実ったのが、現在の「松浦マーケット」だ。当初は「松浦の情報を届けたい」という一心で始めたが、川浪さんの熱意に出店者たちが応え始めた。


川浪「最初は『手伝うよ』って感じだったのが、だんだん『どうする?』『次はこうしよう!』って、みんなで考えるチームになっていったんです。」
そこには、かつて彼が夢見た「ファミリー」のような一体感があった。イベントを手伝う高校生や大学生、松浦マーケットは少しずつ、しかし確実に、人とひとを繋ぐ温かい場所へと成長している。

笑顔の秘密

川浪勇太さんの人生は、「繋がり」を求め続けた旅路そのものだ。孤独だった少年は、ゲームで仲間を見つけ、バンドで青春を知り、挫折の中で家族の温かさに触れた。そして今、自らが作り出す「場」を通して、故郷に笑顔の輪を広げている。
数々の困難を乗り越えてきた川浪さんの強さの証であり、人を惹きつけてやまない彼の魅力の源泉でもある。
くしゃっとした笑顔を見るたび、私たちは思い出すだろう。その笑顔の裏には、数えきれないほどの涙と、それでも人を信じ、繋がりを求め続けた一人の男の、温かくて力強い物語があることを。