田舎をチャンスに! 世界中に生の香りを届けたい【YAMABE KAJUEN/山辺果樹園代表・山辺吉伸さん】

写真

取材

技術マンで元野球少年、新しい農業のカタチに挑戦

東彼杵町から車を走らせること40分。西海橋公園の一角に「YAMABE KAJUEN/山辺果樹園」はある。同果樹園で育てた橙やみかんを使った加工食品やコスメが販売されている直営ショップだ。

「え、果樹園がコスメを?」と驚くかもしれないが、これはオーナー・山辺さんが創り出した“新しい農業のカタチ”。

あるメディアから“ネロリ王子”と称されるほどの爽やかさに加え、佐世保工業高校を皮切りに培ったものづくり技能と元野球少年の根性でもって果樹園の手入れ・商品開発・販売を一手に担っているのだ。

そんな山辺さんに、佐世保東翔高校で同じく野球に青春を捧げたくじらの髭・森がネロリ葉掘りインタビューしてまいりました。

爽やかなみかんとネロリの香りに包まれながら。
大村湾でじいちゃんの船に揺られ、大自然を自転車で駆け回った幼少期

山辺さんは佐世保市針尾町出身。東彼杵町からは、針尾のシンボル「針尾無線塔」が遠くに見える。実家は海辺の農家で、すぐそばには船着き場もあった。

祖父は船乗りだった。お客さんや行商人を連れて大村湾に繰り出しては、一日釣りをして夕方ごろに帰ってくる。山辺さんは学校から帰宅し、祖父が持ち帰ってきた釣り餌の残りをもらい防波堤へそのまま直行。釣りが放課後の楽しみだった。

山辺「そのとき釣った魚はじいちゃんの友達に売ってましたよ。クロとかは藻を食べてくれるので生け簀を綺麗にしてくれるっていうので、一匹100円で買い取ってもらって。そのお金で釣り道具を買いに行ってました。」

―そのときすでに、商売人の気質があったんですね。

山辺「そういうの話すのって大丈夫ですか(笑)。あと、夏場はずっとカブトムシ見に行ったりしてたんですが、売ってませんでした? 知り合いで買ってくれそうな人のところに自転車をバーっと走らせて売ってましたね。」

―ははは! すごい。それにしても、本当に大自然の中で暮らしてたんですね。

山辺「はい。特に夏は、家の前の海で毎日のように泳いだり、貝や魚を獲ったり。そういえば、両親は農業でほぼ家にいなかったので、ひいおばあちゃんが遊び相手でした。90歳ぐらいまで生きてました。」

大自然に加え、山辺さんの少年時代には「西海橋遊園地水族館」もあった。1958年にオープンし30年ほど営業を続けた一大テーマパークで、客足のピークが過ぎてからも地元の子どもたちにとっては貴重な遊び場だった。

小学3、4年のときソフトボールを始めてからは、午前中を練習に費やし午後から海へ釣りや泳ぎに出掛けるフル稼働生活。そして強豪校といわれる東明中学校に進学し、野球少年の道を歩み始めた。

364日ぐらい、野球の練習してました

ところで、今回の取材チームは取材を担当する森も、カメラマン池田も、そして山辺さんも全員が野球つながり。柑橘の香りのもと集った元野球少年たちに、不思議な縁を感じる。

取材中、地元野球の話題でちょっぴり盛り上がった(ミニ四駆の話題も)。

山辺「僕たちのときは、顧問の先生がいませんでした。これまで7年間ぐらい中体連敗退が続いていたので、半分遊びながら楽しみながら、自分たちで考えて練習を重ねてきました。それでやっと一回戦通過して。練習が終わったら遊びに行ってたりはしてました。」

高校は佐世保工業に進学。ものづくりを学びながら、ここでも野球に打ち込んだ。先輩たちからの厳しい教育(?)に耐えながらの鍛錬は、部員同士の結束をより強くしたようだ。

活動費、特に練習試合の遠征費などはアルバイト代から捻出した。当時やっていたのは郵便局の年賀状配り。7万の給料のうち半分を野球に充てた。練習だけじゃない、高校球児たちの野球にかけるストイックさが垣間見えるエピソードだ。

山辺「364日ぐらい練習してました。狂ったように。こっちから朝6時半のバスで通ってましたね。1時間ちょっとで大野で降りて、そっから歩いて。運賃は片道800円だったから、定期も月2万越えでしたもんね!」

―実家のお手伝いとかはされてたんですか?

山辺「そうですね、 うちはハウスみかん農家だったので、夏休みのときがちょうど収穫時期でした。お小遣いもらいながらお手伝いしてましたよ。ちゃんと両親から手ほどきを受けながら。」

―おお。

山辺「あと、父親も漁をしていたので、朝市に連れてってもらったりとか。伝馬船に発電機積んでライト照らしてナマコを獲って、夜中の2~3時に家に帰ってきて僕に言うんです。『行くぞ!』って。朝市に。買い取ってくれるおばちゃんからお小遣いがもらえました。一回行くと1,000円。」

―すごくアクティビティな体験ですね。

山辺「 本当に貴重ですね。小さい伝馬船から8人乗りの大きな漁船もあったので、資源はあったんだなと。じいちゃんは免許一級で、海外も行ける。まだみかんが高く売れていない時期はそんなじいちゃんの漁業にも支えられました。そんな、どうにかこうにか暮らしている家族の姿を見てきました。 」

農業と漁業を営む実家で自然とともにのびのびと暮らし、大好きな野球に打ち込んだ少年時代を振り返った山辺さん。家族に感謝しつつ、「おかげで商売人気質は半ば強制的にできあがっちゃいましたね。」と苦笑する。

「自分の技術を活かす」から、「故郷の資源を活かす」へ

高校で得た知識と技術を活かし、卒業してからは大村の半導体の会社に就職。それを皮切りに、三重、大阪、京都と拠点を移しながらさまざまな業種で技術を磨き経験を重ねてきた。

結婚、リーマンショックを経て九州へ。30歳も間近に迫ってきたころ、縁あって長崎にUターンした。

およそ20年間ものづくりに携わってきた。転機が訪れたのは34歳のとき。長崎の会社に就職した際に実家のみかん農業の手伝いをするようになった山辺さんはある課題に突き当たる。

当時、みかんはブランド化も進み飛ぶように売れていたが、そのぶん取引される基準も厳しくなり、少しでも枠から外れると商品として認められなかった。大きすぎる、形が悪いは当然お金にならない。

丹精込めて育てた我が家の資源。どうにか活かせないかと頭を抱えた。

ジュースや缶詰へのアレンジはさまざまな農家がすでに実施している。では、自分の知識や経験を存分に活かした他にはないやり方はないだろうか。

そこで山辺さんは、かねてから興味があった「香り」に焦点を当てた。地元のものを使って、香りを作ることを思い立ったのである。

自分たちで育てた原料を活かした、生の香りを楽しんでもらうのだ。その香りをベースに、いろんな加工品を作って付加価値を付けて販売してみよう。もちろんクオリティには妥協しない。頭の中でどんどんイメージが湧いてくる。コンパスの針が、ようやく定まったような気がした。

そこからの行動は早かった。会社勤めを果たしながら、蒸留器のことをリサーチし、休日には福岡のメーカーまで足を運んだ。

給料で機器を購入し、理想の香りを出すべくさまざまな方法を試した。会社を退職した2016年、いよいよ農業への挑戦が始まった。

まず始めたのは県の新規就農者向けの研修を受けること。農業を始めるためには手順があり、研修をはじめ農地の借入や機械、施設の購入などさまざまな工程を経なければならない。

山辺さんは研修に通いながら農地を貸してくれる農家を探した。しかし、みかんの生産がさかんな佐世保では良い条件の畑が見つからず、西海市で農地を探すことに。

なんのつてもない、イチからの農地探し。直売所に顔を出しては、「どこかご存じありませんか」と人々に声を掛けた。「あそこにあったかな~」の言葉をたよりに、現地まで赴き近所の人に聞いたりしたことも。

先祖代々から守られてきた畑を見ず知らずの他人に貸す、ということに難色を示されたこともあったが、仕方がないと割り切り次へと進んだ。

田舎の強みを活かして。ブランド「YAMABE KAJUEN」&「junero(ジュネロ)」の誕生
国産オーガニックの「ネロリウォータ―」。ネロリとは、ダイダイ(別名:ビターオレンジ)の花から抽出された精油のことをいう。

当たって何件目ぐらいだっただろうか。ようやく農地の貸出を承諾してくれた農家さんが、針尾無線塔のそばにダイダイの畑を所有していた。

そこはほぼ耕作放棄地となっていたが、無農薬栽培の畑。オーガニックで育てたいという山辺さんの希望に合致した条件だった。畑は、元野球少年の体力を発揮した山辺さんによって整備、みごと再生することとなった。

そしてさらに朗報が舞い込む。山辺さんの両親がハウステンボス近くに持っている土地を開いて畑にするというのだ。

“香り”を発信していくにあたって、特に山辺さんが届けたかったのが自然の少ない都会の人々だ。

ダイダイの花から抽出される貴重な精油「ネロリ」は、彼らを田舎に招待するには十分魅力的な素材となる。アクセスの良さを考えていた山辺さんは、すかさずそのチャンスに飛びついた。

山辺「どうしてもダイダイが欲しかったので、無線塔近くにあった農家さんの畑からダイダイの木を72本掘り上げて、ハウステンボス近くの実家所有の畑に移植させました。トラック二台ぐらいでひたすら往復してましたよ。」

成木を移植することは難しく、特に柑橘系の木は枯れやすい。移植した当初は「本当に商売として成り立つのか」と家族も半信半疑だったという。しかし山辺さんには自信があった。

「ダイダイはみかんに比べ強く育つ。だからきっと大丈夫!」

木自体は30年以上経っていたが、移植した年もしっかりと花を咲かせてくれた。5月のゴールデンウィーク期間をまたぐ二週間程度、ダイダイの花はあふれんばかりの魅力を放ち、関東や関西から訪れた人々の心を癒してくれたそうだ。

花を摘み農園で蒸留して、蒸留水を持ち帰る。また、その花を発送する。摘みたて新鮮なままの香りは、長崎を飛び出して全国各地へ届けられた。

本来、果実の収穫において不要とされる花々が愛でられるその光景は、農家の人々からはとても異質で不思議なものに見えたという。

山辺「自然があり、原料をふんだんにつくれること。これは都会にはないもので、田舎の強みかなと。」

そして、“香り”を柱とするならば、形や大きさは関係ない。育てた分だけ、余すことなく活かすことができる。山辺さんは「新しい農業のカタチ」を確信した。

農家でありながら、積極的に都市部のアロマイベントに出店し、顧客との交流を通じてアロマの世界で彼らが求めているものをリサーチ。やはり、「無農薬・オーガニック」は欠かせないワードだった。

無農薬栽培の方法はもちろん、アロマの知識についても各地に赴いて勉強を重ねてきた山辺さん。果樹園の手入れと並行してのそうした活動は並大抵のことではなかっただろう。

長年ものづくりの仕事に携わってきた探求心、元野球少年の意地と根性が大いに炸裂した。

従来の農業に付加価値を。もちろん、品質には一切妥協しない。こうしてコスメブランド「junero(ジュネロ)」が誕生した。

ネーミングは奥さんと考えて、果樹園の「ジュ」とネロリの「ネロ」を組み合わせた。

また、加工品には「YAMABE KAJUEN」のロゴを冠し、ネロリティーや青みかんを使ったキャンディーや酵素シロップキットなども展開している。

みかんは弱く数も限られるため、夏場に採れる未熟な青の状態がベスト。完熟みかんとは違うより爽やかな香味がヒットした。

山辺「最初は半信半疑だった家族ですが、『酵素シロップ美味しい!スナックに持っていくわ!』って(笑)。」

―はははは!

山辺「『キット2つよろしく!』って。徐々にではありますが、良いことをしているんだなと実感が湧いてきましたね。」

あぁ、やはり笑顔がまぶしい。
「ひと」と「もの」と「こと」はリンクする

今後は、柑橘系の精油やネロリの花の粉末を練り込んだ石鹸など、より手軽に、多くの人に香りを楽しんでもらうためさらなるアイテムの開発に励む。

また、ゆくゆくは「日本の香り」として、精油やアロマオイルを世界に届けていくのも視野に入れていくそうだ。

山辺「しかしながら、無農薬栽培なので、天候などの影響を特に受けて今年は収穫量が少ない。そんな不安定さが課題ですね。そういえば、お世話になっている熊本の農家さんは若い移住者たちに農業を教えてるんですけど、彼らから青みかんを買ったりしてます。『落とさずに採ってください』と伝えて。青みかんの良さ、みかん栽培の難しさに気が付いてもらいたいし、何より農業を続けてもらいたいから。」

―また新しい農業のカタチが。

山辺「すべて自分だけで作るのでは限界があります。量も動きも小さくなるので。それなら、こちらの生活も回り、他の農家さんの応援にもつながるような柔軟な仕組みを作りたい。自分の作ったものだけ売る時代でもないと思いますから。」

―いろんな形がありますね。

山辺「あくまで農業、という感覚でいてはダメだなと。それこそお百姓さんみたいに、いろんなことができて成り立つというか。繋がりはあった方が良いなと思います。」

―最近はアイス屋になってますしね。

山辺「そうそうそう。…いや、アイス屋ではないけど(笑)! でも、せっかく西海橋の近くにあるし、わざわざ来て下さるお客さんがうちを知ってくれるきっかけになればと思ったんですよ。」

―「ひと」と「もの」と「こと」はリンクしますよね。

山辺「ここもとても綺麗なところですよ。目の前で針尾瀬戸の渦が巻いて、大村湾からのダイナミックな流れが見れるっ迫力があると思うんですけど。もっとその良さに気付いて、盛り上がってほしいですね。」

―それでは…。いまの若い人たちに向けてコメントお願いします。

山辺「 人の目は気にしないで。自分は自分で生きていくしかないから。 田舎はチャンスがたくさん眠っていますよ。特にいまなら、SNSやZoomなど手段もたくさんあるので偉い人にもアタックできる。自分に関係ないことでもとりあえず聞いてみて。すると興味のある方向がでてくる。なにかしら行動を!怖がっちゃだめ、とりあえずは時が解決してくれるから。どうにかなるよ。」

以前、環境活動家の高校生と交流する機会があったという山辺さん。「年齢は関係ない」という思いをさらに強くしたという。

そんな山辺さんは、高校生たちに商品開発についての講義を行うことになったそうだ。

これまで培った知識やノウハウ、アイディアなどを共有し、さらなる新しい農業が彼をきっかけに生まれていくのかもしれない。