ひと口飲んで「おいしい!」と喜ばれるお茶を。『有限会社岡田商会 3代目・代表取締役 岡田金助さん』

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『有限会社 岡田商会』は、東彼杵町千綿宿郷にお店と工場を構える製茶問屋です。その歴史は長崎県じゅうのお茶を取りまとめ、海外への貿易も行っていた前身の会社『長崎県製茶株式会社』に始まり、昭和28年に『有限会社 岡田商会』と名を改め創業。現在に至るまでそのぎ茶の製造と販売を行っています。

岡田商会の3代目であり代表取締役を務める岡田金助さんは、銀行への勤務を経て、家業である岡田商会へと入社。その後数十年にわたってお茶を作り売っていくなかで、お茶が生活必需品として大量生産・大量消費されていた時代から、嗜好品へと変わっていく時代を経験してきました。

そのぎ茶を取り巻く状況が目まぐるしく変化する最中、金助さんはどんなことを感じ、どんな行動を起こしてきたのでしょうか。じっくりとお話を伺いました。

お茶屋としてのスタート

金助さんは昭和23年生まれ。近所に住む仲良しの幼なじみ2人と大村湾で一日中泳いだり、龍頭泉まで川のぼりをするなど、自然の中で元気いっぱいに遊ぶ子供時代を過ごしました。5、6歳くらいの頃にはおじい様と一緒にバスに乗って彼杵駅前にあった『長崎県製茶株式会社』まで連れられて、お茶の仕事を身近で見ていたそう。

当時は子供の数がとても多く、金助さんの同級生だけでも200人にのぼるほど。中学卒業後はその内の50人ほどが東京などの大都会へ集団就職をする時代でしたが、金助さんは地元に残り高校へと進学します。

岡田金助さん(以下金助)「祖父や両親はゆくゆく家業を継ぐためにと商業高校へ行ってほしかったようですが、そこから単純に商売に行くのは面白くないって反抗して(笑)、仲の良かった幼なじみたちと一緒に普通高校へ進学しました。昭和40年代で高度経済成長期に入ったところだったし、家の商売も順調になって来ていたので『まあ良かたい』と認めてくれたんじゃないでしょうかね」

やがて海外に行って貿易をしたいという夢が膨らみ、神戸商科大学を受験しますが残念ながら失敗してしまいます。両親から「一日も早く家を出なさい」と言われたこともあり、浪人はせず福岡の大学へと進学。大学では経済を学び、卒業後は地元の銀行へと就職しました。

その頃、岡田商会では九州各地へお茶を卸す仕事が軌道に乗り、毎日のようにお茶をトラックで配達を行っていたそう。それに加えて『商売の基本は農業にあり』と田んぼ仕事を始めており、お茶の製造販売、配達、そして農作業をこなさなければならないハードな事態となっていました。

金助「大変な状況だったので人手不足になって、外で勤めている場合じゃないってことで私が呼び戻されたんですよ。銀行には1年ほどしか勤めませんでしたが、そこからが私のお茶屋としてのスタートとなりました」

この時、金助さんは23歳。お茶を通じて時代の変化へと向き合う日々が始まります。

次々と変わりゆくお茶の道行き

岡田商会へと入社してすぐは九州各地へと営業で走り回っていました。あちこちで大量の注文を受け配達を繰り返す毎日でしたが、今でも金助さんが「嘘みたいだった」と語るほど忘れられないエピソードがあります。

金助「北九州に営業に行った時の話です。先方にお茶が欲しいと言われ、いかほどの量を用意したら良いかお尋ねしたところ『君が乗ってきた2tトラック2台分くれ』と(笑)。どうにか4t分用意して持って行くと、ちょっと待っててと言われ先方さんが電話をかけ出して。すると小規模のお茶屋さんたちが次々に『うちはこれだけ欲しい』『うちはこれくらい』とお茶を取りにいらっしゃって、すぐにキレイさっぱり無くなりました。同じ先方さんからはそれからも繰り返し注文をいただいては配達していましたよ」

当時は高度経済成長期の真っ盛り。巷では一人一台と言われるほど自動車が普及したり、テレビ・冷蔵庫・洗濯機のいわゆる三種の神器が出始めるなど、世の中の動きが大変盛んになった時期でした。お茶もそんな上り調子の流れに乗り、作れば作るほど売れる時代が長く続いたのです。

しかし、時を経て少しずつ時代の波が変わり、お茶もかつてのように大量に売れる機会が少しずつ減っていきました。それまでは生活必需品として必ず食卓にお茶が登場していましたが、急須で淹れるお茶よりもさらに簡単に飲める缶コーヒーやジュース等の飲み物が台頭し始めたのです。

金助「お茶の動きがこれまでの大量生産・大量消費じゃなくなってきたので『じゃあどうしようか?』と。そんなときに大学の経済学部で学んだことがよぎって『これからお茶は嗜好品に変わるのでは』とハッとしたんです」

嗜好品になるのならそれに見合う価値を備えなければならないと動き出した金助さん。より美味しいお茶を作りお客様に選んでもらえるよう、製法を伝統的な『釜炒り』から美しい緑色が映え、若い世代にも好まれやすい『蒸し』へと変更。提携しているお茶農家さんにも協力を仰ぎ全力で方向転換を図りました。

また東彼杵町でも有数の大型機械を取り入れ、一度にたくさんの美味しいお茶を作れるよう研究を行っています。火力や温度調節が上手くいかないと中に入れた茶葉が全部使えなくなってしまうため、かなり慎重に扱っているそう。

金助「東彼杵ではお茶がたくさん採れているので、流通屋としてもっと県外にもお茶を売っていかなきゃ生産者が作る甲斐がないじゃない。だからそのぎ茶をいろんな所にさばいていかないとっていう流通屋の責任を持ってやっています」

熱意は若い世代へ

そして現在は4代目を引き継ぐ息子の浩幸さん(写真右)、各地へ営業を行う甥の泰樹さん(写真左)ら若い世代の仲間と共にお茶づくりへと励んでいます。

金助「自分が引き継いだばかりの頃はとにかく大量に作っていたから、そこまで味にこだわっていなくて。でも嗜好品へと変わっていくなかでお客様の口に合わせるためにはやっぱり美味しいお茶を作らなきゃいけない、と様々な工夫を凝らしてきました。そして現在は他に真似できないような、一口飲んで思わず『美味しい!』って喜んでもらえるお茶を作ろうと息子たちが頑張っています。2017年には息子が指揮を執って日本茶AWARDに取り組み、日本一を獲得しました。これまで自分たちがやってきたことは間違ってなかったんだと、とても嬉しい瞬間でしたね」

最後に、今後のお茶づくりにおいて大切なことを金助さんに語っていただきました。

金助「日本一の称号をいただいたから終わりというわけではありません。これからも究極のお茶づくりを探求し続けること、そしてお茶が持っている至高の品格を求め続けることが大切なんです」

金助さんが乗り越えてきた激動の時代を思うと、お茶の味わいもひとしおに深く沁み入るよう。薫り良く優しいうまみがじんわりと広がっていくそのぎ茶を、あなたもぜひどうぞ。

岡田商会で手掛けられたお茶は、千綿宿郷にある店舗や公式ホームページを始め『Sorriso riso 千綿第三瀬戸米倉庫』内にある『くじらの髭』店舗でも販売しています。気になる方はぜひチェックを。