祖父や父の思いを継ぎ、理容の道を走り続ける。東彼杵町の老舗理容院『浦川理容』3代目店主・浦川政裕さん。

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長崎県東彼杵町で理容業を営む『浦川理容』は、1943年に創業した。 もうそろそろ80年目を迎える老舗である。祖父から代々バトンが引き継がれ、現在3代目を担うのが浦川政裕さんだ。先代の思いを受け、バリカンやハサミ、カミソリを手に今日もお客の利用を整えている。

祖父から父、父から子へ。
そしてバトンは渡された

浦川理容を創業したのは、先代の祖父、義見さん。大村に修行に出て 、その後は東彼杵町で開業し、店を構えた。

浦川「元々は西彼杵郡出身で、戦時では医療班として活動していたそうです。その経験から、床屋業を営むようになったのではないかと思います」

なぜ、東彼杵での開業になったのか。

「祖母が大村出身で、祖父の修行時代に出会っています。それが理由のひとつではないかと。その辺の話は聞いたことがないので詳しくはわからないですが」

当時の写真を見せてもらった。「祖父と、父の親子で写っている写真がないんですよね。これは、お店の従業員と父の写真です」。古いもので昭和13年に撮影されたものがある。写真が残っている時点ですごい。創業場所は、現在ある場所よりももっと国道沿い。入江呉服店さんの隣にあったという。

「ある程度店が安定してから、場所を移したと聞いています。祖父が、44歳という若さで倒れ、亡くなりました。店を始めてすぐ、これからという時でした。店は、当時一緒に働いていた従業員に一旦引き継いでもらい、その方は最後まで浦川理容で働いてくれました。父は、一緒に働きながら、修行をしました。本当は、外に出たかったという気持ちがあったのだと思います」

2代目、義則さん。昭和23年生まれ。稼業ということ、姉も理容師として引き継ぐまでの間頑張ってくれたということ。いろんな想いが、使命感を芽生えさせた。

「ですが、本人も夢だと言っていたので、継ぐ意思ももちろんあったはずです。従業員が引き継ぐ中で、中学校卒業後、高校には行かず専門学校に行きながら免許を取って。祖父が育てた人から教えてもらいながら勉強したと思います。理容師免許が必要なので、勉強はしないといけません。40年以上に渡って働いてきました」

そして、昭和58年。3代目となる政裕さんが誕生した。「姉と弟がいます。姉は名古屋に行って、弟は福岡に。家業である理容を継いだのは私だけです」。その理由とは。

「小さい頃から仕込まれていた感じは若干ありますね。小さい頃から、そろばんではなく、バリカンを握らせるという(笑)」

「物心ついた時からバリカンを触っていたと言われたら継ぐものなのかなと思いましたし、父や学校の先生から床屋の仕事も悪くないと言われて。そして、最後は自分で決めました。兄弟で誰が継ぐかは、話していません。ただ、私がしなかったら弟が継いでいたかもしれないですね。卒業アルバムで弟が床屋をやると書いてあるのを見て、初めて知りました。姉は服飾系に行ったので、別の意味で容姿を変える仕事を選んだのだと思います。その後に、違う道に。近くで毎日見ているので、美容に関することに自ずと興味を持つのでしょうね」

理容以外の夢もあった。

「走るのが好きで、長距離の選手として大学とか進みたかったんですが、なかなかうまく行きませんでした。中学までは野球部。でも、体が小さかったし、野球するよりは陸上をやる方がいけるるのではと思いました。陸上も、野球しながらでもそこそこやれていたので高校では陸上部に。当時、佐世保市の西海学園高等学校が駅伝が強かったので、その先生に指導を受けるべく入学したのですが、私の時にちょうど退職するという(笑)。衝撃的な事実を入学式当日、寮の前で聞きました。そこも運命の分かれ道だった気がします」

高校3年間を過ごす中で、将来の自分の姿について考え、悩み、決断した。

「先輩は厳しかったけど、周りの友達も優しく学生生活自体は楽しく送れました。寮生活では、まだ陸上で何とかやりたいと言う気持ちが強かったのですが、怪我が多くて望みは薄いのかなとも思うようになり。そして、大学に行くか家業を継ぐかで悩み、家業を取ることにしました。そうすると、技術を取るために大学から専門学校へ行って時間を使うよりは、早くその道を学ぼうと。そして、勉強して帰ってきて地元中学の陸上のコーチも引き受けることができて。気がつくと、自分の好きなことをしながら仕事をするというのもできるようになっていました」

父からの教えから学んだ、
楽しく仕事をするということ

小さい頃から、父親の働く背中を見てきて感じたことがあるという。

「父親が人の悪口を言うことはなかったですね。徹底していました。お客さんが、他人の愚痴や悪口を言い始めたら、ピタッと口を噤んで。同調することはありませんでした。これが、真似しようと思ってもなかなかできないことです。ついつい、乗ってしまうじゃないですか。特に、お客さんから言われれば、そうですねと答えてしまいがちです」

人を想い、ユーモアを持ちつつも嫌なことには同調しない父を尊敬していた。

「悪口も、言ったら巡り巡って自分に返ってくると思っていたのではないでしょうか。私に対しても、全然怒らない父親でした。褒められた経験もないのですが、後でお客さんから父が自分のことについて話していたことを聞いて、褒められていたことを知りました。親バカだなと思いながら、それが逆に私たちも頑張るように仕向けていたのかなとか色々考えるようになりました。5~6年は一緒に働けていたんですよね。そこで、お客さんとのコミュニケーションの取り方を見て学びました。よくわからない冗談を言って高校生を困らせたり、基本ふざけていました(笑)。でも、楽しんで仕事をしていたなと」

その後、政裕さんが父、義則さんから正式に3代目としてバトンを引き継いだ。1人で働き始めたのは、30歳の頃だった。

仕事は、『生きがい』。
目標を定めて、走り続ける

気がつくと、理容業界に身を置いて18年。陸上選手のように、長い道のりを駆け抜けてきた。そして、これからも走り続ける。そのモチベーションとは。

「私にとって、仕事とは…生きがいじゃないですか。そう言える感じになってきています。それがなかったら、他に何があるのか(笑)。最近は、趣味であったはずの走ることもしていないから、本当に趣味ってなんなのだろうと思うことがあります。ここ数年で体重も増えてしまい…(汗)。コロナ禍で大会などもなくなって、モチベーションがなくなってます。そして、目的なく走るとか、ダイエット目的のために走るのは違う。コロナ禍でわかったことなんですが、考えてみると走るのが好きなのではなくて、タイムだったり成績を残したり目標を達成できるのが好きだったことに気がつきました。自分で何分で走ると計画して、その目標に向けて頑張るのが好きだったんですね。走るの自体はむしろ嫌いなのだと(笑)」

千綿中学校のコーチをしていた当時は、店から学校までの距離4キロ往復の計8キロ。加えて、子どもたちとも8キロを走って毎日教えていたというのだから、そのスタミナたるや驚愕なものである。しかし、ただ走るのではなく、目標を達成することにモチベーションを感じていることが仕事を楽しく続ける秘策なのだ。目標を作り、そこまでの道のりを楽しむことができる限り、走り続けられる。

今後は、高齢者や障がい者など体の不自由な人へのサービスも積極的に取り入れていきたいと浦川さんは語る。そして、地域との連携した理容ならでわの取り組みも行いたいと考える。

「他の業種の方々と連携して、上手に組み込めないかと模索しています。人の話を色々聞けるのは床屋のいいところかもしれません。悩みを聞いて、それを改善すべく他の業種の人たちと連動して期待に応えれるようなことができれば面白いのかなと。体験型理容なども、やってみたいです。お店に来た人に、商品を説明したり。そうしたことを考えるのが楽しい。目標は、どんなところからでも設定できますから」

みせについての詳細は以下の記事をご覧ください。