変化を受け入れ、土地と、顧客と、料理と向き合う。『Little Leo(リトル・れお)』オーナーシェフ・宮副玲長奈さん

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レストランやホテルの評価を星の数で表すレストラン・ホテルガイドの老舗本『ミシュランガイド』。ミシュランの星を獲得した店は、名誉あるステータスとなる。ガイド発祥の地フランスに単身で渡り、ミシュランの星を持つ店で修行を積み料理長まで上り詰めた男が、東彼杵の地でフレンチレストランを営んでいる。『Little Leo(リトル・れお)』オーナーシェフの宮副玲長奈さんだ。

早くから親元を離れ、各地へ。
常に、自分の感覚を磨いてきた

長崎県佐世保市出身。両親が佐世保市街地でフレンチレストラン『レオリオンドール』を営んでいた。幼少期から、親の背中を見てきた。

宮副「料理人に対する憧れはなかったけど、大人になったらそうなるものだと思っていました。飲食の仕事しか見てこなかったので、他の職種を知らないんですよ(笑)。中学くらいから皿洗いの手伝いをやっていて、結果料理の仕事しかしてこなかった」

早くして広島県や千葉県の全寮制学校に入り、親元、地元を離れた地で学生時代を謳歌した。

「親も全国各地回っていたので、離れたところで生活を送ることで自律を促す教えですかね。小学生だったので深くは考えずに、いつの間にか広島の全寮制学校に来ていたみたいな(笑)。なので、親元を離れて他所の場所に行くことは、幼い頃から慣れていたし、違和感も持ちませんでした」

学生を終えるとともに、料理人としてのキャリアが東京で始まった。

「実家がフレンチ料理屋だったので、そこも深く考えずにイタリアンではなくフレンチを。調理学校などへは行かず、ダイレクトにレストランでの修行から始まりました。料理の世界は、私のように親がレストランをやっているという人間は周りに山のようにいたわけですよ。何も珍しいことではなかった。その中で、人と変わったことをしようとか、自分をどう出すかとかというのを考えるのではなく、とにかく基本に忠実に技術を学ぶ。どの世界でもそうだと思いますが、先人、先輩のテクニックを見て上手いな、自分もそうなりたいとイメージし、そうなるには何を学べば良いかを見よう見まねで覚える。そうして、基礎を学んでいくのだと思います」

東京で2年半ほど働いた後、本場フランスへ単身で行くことを決意。

「私たちの時代は、『ミシュラン』という星付きのレストランで働くのがひとつのステータスとしてありました。自分も星付きのレストランで働きたい。そう思った時、現在でしたら日本の星付きレストランへ修行に行けばいいのでしょうが、当時日本にはまだなかった。本場に行かないとそれが成し遂げられない。それで、フランスに単身で旅立ちました」

フランスで生活すること約10年。暮らしにも慣れ、己の腕だけで料理長まで上り詰め、永住権まで取得した。

「人によってフランスでの暮らしに合う、合わないはあるかと思います。日本人の歴史観や考え方とは全く違うので、意見を言うのが苦手な人は難しいかもしれません。私にとって、フランスでの暮らしは苦に感じることはなく、寧ろ自分の性格に合っていて暮らしやすかったです。そのまま、フランスで腕を磨き続ける選択肢もありました。料理長時代もまだ自分のレベルが高いとは思っていなかったし、このままさらに上の方のクラスを目指すというね」

しかし、考えた結果、日本へ戻りゼロからのキャリアリスタートを選ぶことにした。

「いくらフランスで経験を積んでも、日本に戻ればゼロからの出発になる。フランスでこのままキャリアを積んで、登っていくことも考えましたが、死ぬまでフランスにいるのには違和感がありました。そこで、40、50歳になって日本に戻っても相手にされないという思いがあり、それならば、30歳というタイミングでリセットして、再出発するのも良いと判断しました」

本場フランスから、地元への凱旋。
驕らず、常にゼロからの出発

フランスでの生活を終え、地元の佐世保へと戻ってきた。そして、家族と一緒にお店を回した。15年の月日が経っていた。

「地元九州なので、暮らしは楽でした。しかし、フレンチの捉えられ方、扱われ方が本場とは違うので、日本人としてのフレンチとの向き合い方をしなければならなかった。食材も違うし、向こうだとすんなり入ってくるものが手に入らない。もどかしい気持はかなりありましたが、私の出した料理が、たとえ本物で美味しかろうが、食べる人たちが受け入れてくれなかったら意味がない。15年の中で日本人にも受け入れやすいものを提供すべく、日本人に合うような出汁の取り方やコースのバランスなどをイチから模索し続けました

そして、2019年。佐世保市から東彼杵町へと心機一転舞台を移すことになる。

「東彼杵町の景色に惚れて移ってきました。3年ほど経ちますが、少しずつこの土地の食材の特徴や癖を掴めてきている段階まできています。ただ調べるだけでは理解はできません。実際にその土地で暮らし、食べて消化し、風土や空気を肌や感覚で知っていくことが大切です。そうして、初めてその土地の食材を理解し、料理へと落とし込めるし、応用ができる。ニンジンひとつとっても、ソースでも、付け合わせでも、メインでも。いろんな形に変えていけるし、それをどう魅せるかがその人の腕の見せ所となるわけです。何年かしてやっと形になっていく。面倒臭いのですが、それだけに奥が深い」

調理工程が長く、方法論も数多く存在するフレンチ。それだけ、本当の意味でその土地で生まれる食材を理解できるのには時間がかかると話す宮副シェフ。フレンチ料理人としての真髄に触れた。それは、『テロワール』という感覚であり、その精神を大事に今も料理と向き合っている。

「同じ長崎県とは言えども、東彼杵町と佐世保市の風景は全然違うので、その地に根を下ろしてゆっくりと時間と共に、その土地に一緒に生きる人たちと触れ合って風土を吸収していく。テロワールの面白いところです。そして、そうしないと私の思う料理にはなりません」

料理は、人の評価を受ける作品。
変化を受け入れ、新たに生み出し続ける

これから3年、5年先のリトルレオをどうしていきたいか。その気持ちを率直に伺ってみた。

「先を見なくとも、短いスパンでも料理を発展させられることはあるし、どこのタイミングでどう思いつくのかはわかりません。毎日が実験です。変化を恐れず、変化を受け入れていく。極端な話、今やっていることを明日否定できるようになれるくらいの柔軟性を大事にしたいです。コロナ禍を経験してわかったことですが、今までやらないと思っていたこともやってみる。例えば、パスタであれば今まで生麺しか使わないのがこだわりだったけど、乾麺を使ってみるとか。それでしかできない料理が逆にあるし、バリエーションが広がる。”やらないということを積極的に辞めてみよう”という。一つの方法です。その結果、思ったようにならなければ戻せば良いし、広がりがあれば収穫は大きいので。決めていた自分を捨てられる私でありたい」

こだわりを捨て、やらないことを取り入れるのは挑戦であり、新しい取り組みである。そのパワーは、どこから湧いてくるのだろうか。

「お客さんとの触れ合いです。自分が良いと思っても、お客さんとのズレを感じると疑問が出てくる。そんな時、この味しか出さないという人もいて、それもすごく良いことだし、素晴らしいとは思いますが、自分の性分的には違うと思ったら変えれば良いかなと思うんですよね。常に自分は変わらない、自分が正しいというのは私の信条としては良しとしていないので。そして、変えても良い状況なのに、変えないのはもったいない。時代は変わるし、時代が変われば人も、私も変わりますから」

宮副シェフにとって、『料理』とは。

「深いね、何でしょう。絶対的なのが、まずは仕事だということ。仕事だけど、ただ数をこなすわけではなく、そこには発想があり、エンターテインメント性があり、その結果が見られることでもある。自分でこれをやってみようと思って、取り組んでみて、食べてもらって対価と評価を得るわけじゃないですか。そういうことを考えると、私にとって料理とは自分の考えを評価してもらう作品だし、常に向き合わなければならないもの。仕事というカテゴリーとしては、お客さんを驚かせたり、喜ばせたり、もう少し力を入れてます。表現という言い方はあまり好きではないけど、ひとつの表現をする場所ではあります。自分だって、そこで良いと言ってもらいたいし、認められたい欲はあるので(笑)」

料理は作品。自分へ向けられている言葉ではありながら、その気持ちで向き合う方が、料理を楽しむ客にとってもプラスになることには違いない。そして、それは作品であっても、芸術とは相容れない一線を画すものだと氏は語る。

「芸術も作品ですが、そこには喜びの他に悲しみや怒り、そして綺麗さと汚さの両面を見せることであります。それは、五感で楽しませるための料理には必要ないので、その意味で料理は芸術ではありません」

みせについての詳細は以下の記事をご覧ください。