「昔ながらの」ものが好きです。
時代に合わせて、新しく変わり続けるのは必要なこと。でも、変わらないもののよさを残していくのも、豊かなことだと思うのです。
東彼杵町で唯一の味噌屋、大渡商店。3代目の大渡康平さんは、創業当時からの方法で麹を育て、五感をフルに活用した味噌づくりを続けています。
伝統的な『モロブタ製法』でつくる、やさしい味わいの味噌。手間のかかる方法をなぜ続けているのか。食の価値観が変わっていくなかで、何ができるのか。話を聞きました。
一番の売りが、一番の弱み。
東彼杵から川棚へ続く県道205号。
海沿いの道を走っていくと、ふいに大渡商店の看板が現れる。カーブが多いので見落としそうになるけれど、味噌樽のオブジェが目印だ。手前に事務所と直売スペース、裏手に工場や倉庫が並んでいる。
創業者は康平さんの祖父母。もともとは農家で、リアカーを引いて野菜や調味料を売るところからスタートした。
味噌づくりの機械は、鉄工所の知り合いに頼んでつくってもらったり、ものによってはお父さんが自作したり。独自の製造ラインを構築してきた。
「代替わりのタイミングで既製品の釜とかコンベアとか、導入することも検討したんです。でも全部うちのラインに合わせてつくってるので、なかなか『これだ!』っていうものがないんですよね」
康平さんが工場のなかを案内しながら解説してくれる。
「これとそれはドッキングするんですよ。きれいに、ガチャンって」「そっちは、タンクの高さに合わせてコンベアに傾斜をつけてあるので、据えるだけで材料を入れられるんです」
特注品なので、替えがきかない。廃盤の部品も使っていて、壊れたら直せる保証もない。
初期投資の負担はあるとしても、いっそすべて新しい機械に変えたほうがいいのでは?という気もする。康平さんもそこで悩んだ。
でも、最終的には昔ながらのやり方を選んだ。手間のかかることもどこか愛おしそうに語る姿に、想いがにじむ。
「変えられないから変わってない部分も、変えたくないから変えてないところもあります。このやり方じゃないと、できない味があると思うので」
こだわりのひとつが、麹づくり。『モロブタ製法』という伝統的な方法を守っている。
室温40度前後、湿度60〜80%に保った室(むろ)と呼ばれる部屋で、麦を一晩寝かせる。それをモロブタという浅い木箱に移し替えて、36時間かけて微生物を繁殖させ、麹に。
温度計や湿度計を頼りに手動で調整しているため、仕込みの時期には1時間おきに室を訪れて状態を確認する必要があるという。自ずと睡眠時間も削られる。
「五感で麹の状態がわかっていると、調整しやすいんです。スーパーに並んでいるみたいに、いつも同じ味を提供するのはむずかしいけど、そのときの麹の状態や季節に合った水加減、塩加減で、ベストを探りながら商品化する。そのやり方も嫌いじゃないんですよね」
「味噌漬けも、昔のやり方をそのまま続けていて。効率はよくないけど、おじいちゃんおばあちゃんが家でつくってたような漬け物感は残ってる。そこがうちの一番の売りでもあるし、弱いところでもあるかな」
味噌屋の未来。
九州、とりわけ長崎は麦の文化が強い。大渡商店でつくる味噌も、9割は麦味噌。残りの1割程度が、米との合わせ味噌だという。
合わせ味噌は、根強い要望があるんですか?
「お客さんのニーズもあるんですけど、うちの商品でけっこうあるのが、もともと大根を仕入れてた農家さんから『ニンジンが売れないから数トン買ってくれないか』って頼まれて漬け物にするとか。そういう流れのなかで、お米も使いはじめたみたいです」
その年の天候や自然災害の有無によって、収量や質が大きく左右される農業。日持ちしない農作物はとくに、先の読めないむずかしさがある。
味噌屋は、味噌漬けなどの加工品にすることで、そのブレを最小限に抑える調整弁のような役割も担ってきたのかもしれない。
「昔は酒屋さんとか醤油屋さんと一緒で、町に一軒はあった商売なんですけど。今って町に一軒どころか、県内に何軒ありますかって状況じゃないですか。うちみたいに個人事業の延長で法人化したところは、今どこもキツいんじゃないかなと思います」
味噌も味噌漬けも、最近はなかなか売れなくなってきているという。
数世代・数世帯が一緒に暮らす大家族から、核家族化が進んだことで、消費量が減っていることがその一因。加えて、食の選択肢が増えていることの影響もある。
一方で味噌業界全体を見ると、じつは売り上げは横ばいか、少し伸びてきているらしい。大手企業は、お湯を注ぐだけで手軽に味噌汁を楽しめるインスタントやフリーズドライの商品を開発し、海外にも販路を広げることで、売り上げを守っているそうだ。
でも正直、インスタントの味噌汁って味気のない印象があります。生の味噌には敵わないような。
「それが今、おいしくなってきちゃってるんですよ。技術力が上がって、より安く、おいしくつくれるようになってる。そりゃみんなそっちを買いますよね。とくにこの2年間は、テイクアウトも含めて選択肢が増えていて。食の転換期を迎えているのかなと思います」
工場に味噌を持ち込んで、パウダー状にする加工ができないか試したり、商品開発に挑戦したり。康平さん自身、ここ数年はさまざまな可能性を模索してきた。
そのなかで味噌落花生が商品化するなど、実を結んだ取り組みもある。
それでもやはり、ロット数や予算の関係から、大手のように大胆なチャレンジはむずかしく、厳しい経営状況が続いているという。原料の大豆も高騰していて、値上げや売り方も含めて、抜本的な見直しが必要なタイミングかもしれない。
時代が移り変わっても、根本は変えたくない。
何を変えて、何を残すのか。康平さんは今、分岐点に立っている。
もともと味噌屋としての大渡商店の基礎を築いたのは、康平さんのお父さんだった。
職人気質なお父さんは、康平さんに対して、味噌づくりを丁寧に教えることはしなかった。ひとつ屋根の下で暮らしていても、交わす言葉は少ない。口を開けばケンカになるからだ。
暮らしも仕事も一緒だからこそ、家業を継いでいくことはむずかしい。それでも、見様見真似で手を動かせば、受け継がれていくものがある。大渡商店の味噌づくりは、少しずつ康平さんの体にも刻まれていった。
そんななか、2017年にお父さんが肝硬変のため急逝。同年には、九州北部豪雨で福岡の直営店が被災し、突如閉店するという試練も経験した。
「6年間ぐらいかな、父親と一緒に仕事をしたのは。さっき見てもらった通り、あまりデータとかメモとか残していないので、ぼくのつくる味噌と父のつくってた味噌の味は、けっこう違うと思います」
それでも変わらないものがあるとすれば、康平さんはなんだと思いますか?
「国産の大豆だとか塩とか、材料はそれなりにいいものを使うこと。添加物や化学調味料を入れないこと。あとは、昔ながらの味を守ること。この3つは父親の代から大事にしてきたことで。時代に合わせて変化はしても、根本は変えないようにしたいって想いはありますね」
合言葉は、”生きてる味噌を食卓へ”。
嗜好品としての味噌ではなく、日常の調味料としての味噌文化を守っていきたい、と康平さんは言う。いろんな種類の味噌を買い揃えて食べ比べたり、混ぜたりしても楽しいと教えてくれたのも、康平さんだった。
大渡商店の味噌のやさしい味わいは、この人がつくってこそ醸し出されるものなのだと、話を聞きながら思いました。
どこかで見かけることがあれば、食卓のおともに、ぜひ迎えてみてください。
康平さんの「ひと」記事は下記からどうぞ。
https://kujiranohige.stores.jp/items/5e9d813d34ef013ff811cf93