『上田皮ふ科』を開設した上田院長
長崎県大村市にある、『上田皮ふ科』。上田皮ふ科は、さまざまな皮膚の症状に対応、治療してくれるほか、美容治療や医療レーザー脱毛なども手掛けている。2015年7月にこのクリニックを開設したのは、院長の上田厚登さん。上田さんの人柄の滲み出た、優しく丁寧な語り口調はとても安心できる。患者さんも同じ気持ちになれるのではないだろうか。
上田さんにはデザイン好きという一面がある。上田皮ふ科の建築やロゴだけでなく、『クレド』という医院での共通理念を作り出すなどの取り組みを通して、関係者の共感性を高める要因を生み出しているように見える。
*クレド:上田皮ふ科のスタッフに共通の理念を浸透されるため活用している小冊子
「デザインとか、建築とかが好きです。企業のユニフォームとかもそうですけど、デザインで人の意識が変わるとか、ある企業の清掃係のユニフォームをかっこいいものに変えたら、すごくパフォーマンスが上がったという話があって。デザインによって、働く人のモチベートをすることができたり、意識が変わるのかなと思ったりしています」
一流と触れ合う
さまざまなデザインをしていくなかで、上田さんにはひとつこだわりがある。
「その道のプロと組むのが一番良いなというところでですね、一流の極めた人たちと組むようにしています。やっぱり自分でできることって限界がありますからね。その道のトップの人と組んだら、その感性から影響を受けることもできますし。一流に触れたいというところですね」
一流から学ぶ。そんな勉強熱心な上田さんは、最近でもクリニックの経営者としての在り方を学ぶために、大阪府の『ヨリタ歯科クリニック』の見学に行き、とても感銘を受けたという。
「寄田先生は僕たちみたいに見学した人を感動させるって聞いてたんですけど、ワールドカップのスペイン戦以上に感動しましたね(笑)。ここがすごいのが、スタッフに対する貢献ですね。例えば食堂があって、200円で専任のおばちゃんが作った食事が食べられます。食堂は赤字なんでしょうけど、究極の福利厚生ということですね。だから僕たちもまだまだ足りないなというところですね。現状はできないんですけど、こういった関わる人への愛を大切にしている組織を目指したいと思っています」
一流から学び、自身の持つ組織に還元する上田さん。今回は上田さんが医療の道を選び、上田皮ふ科を開設した経緯や、上田さんの考え方を形成した原体験などを伺った。
幼少期について
1974年生まれ。大村市植松に住んでいた上田さんは、聖母幼稚園に通った後、竹松小学校へ入学。公園や畑、山で遊ぶことが多い子どもだった。ここまでは普通の小学生だが、ひとつ珍しいのは、上田さんがバイオリンを習っていたということだ。中学校の音楽教師をしていた父親に促されて始めたバイオリンは、小学校1年生から高校生になるまで続けた。中学生になると水泳を始めるが、あくまでバイオリンが中心だ。
「バイオリンは1日2時間を毎日してました。長崎市内に先生がいらっしゃって。そこまで通っていましたね。そういう意味では父親も熱心ですよね。かなり厳しかったです。良かったのは、ひとつのことをずっとやり続けるという点で見ると、意味があったのかなと思えることです」
兄の存在
上田さんには3歳年上の知的障害を持った兄がおり、養護に熱心な先生がいるということから植松から竹松へと引っ越し、郡中学校へ通うことになった。
「大村って田舎なので、障害者に対しての偏見のようなものがあって。いろいろと、からかわれたりしていました。小中学校では『お前の兄ちゃんはなんであんななんだ』とか言われてました。そういうのが嫌だったり、恥ずかしいなという思いはありましたね」
兄の存在が、医療の道を志した上田さんのひとつのモチベーションになっている。そのような環境があり、中学3年のときには医療の道を意識し始めた。
医療の道へ
「目指すならそっちかなという感じがありました。そのときは障害者関係の仕事をしたいというのはなかったんですけど、技術を持っときたいというのと、憧れもありました。高校生になると、そもそも医者になれるかどうかわからないなと思いながら、まずは医学部に受かるのが目標でした」
それから上田さんは大村高校に入学し、勉強のためにバイオリンも辞め、北九州での1年間の浪人を経て、医学部に無事に合格した。
「どうにか医学部に入学したんですけれども、医大の学費がとても高くて。。両親が無理して学費を捻出してくれて兄貴の分の教育費を回してもらって通っていたので、かなり貧乏でした。今はもうないんですけど、伝説のアパートがあって。家賃14000円のアパートに住んでました(笑)。苦学生ばかりが来ていましたね。シャワーがないお風呂で、みんながそこで洗うんですね。1番目の人はいいんですけど、3番目くらいになったら汚いんですよ。だから誰が1番で行くかみたいなのがありました(笑)。今はいい思い出です」
医療の道に進んでからの葛藤
そのような大学時代を過ごすなか、上田さんは6年生のときに母親を癌で亡くす。一切病気にかかったことのなかった母親が、10月に診断を受け、翌年の4月には亡くなってしまった。足が浮腫むなどの相談を受けたことはあったが、当時医学生だった上田さんには何が起きているのか、どうしてよいかわからず、このような結果に大変ショックを受けてしまう。それでも医学部6年生には国家試験が待っていて、合格すれば就職先を決めなければならない。
「国家試験には受かりました。しかしそこから、何科に行くか迷いましたね。私は家が医者ではないので、ほかの人は内科を継がなきゃいかんとか進むべき道が決まっていました。私はというと決まった進路がなかったので、どうしようか本当に迷っていて。そのときに兄貴のことを思い出して、母親が亡くなってからは父親が兄貴の世話を一人でしていて、私はそもそも何のために医者になるのかなということを思い出して本当に迷いました。癌で亡くなった母親のこともあったから、内科の方を突き詰めた方がいいのかなと思いつつ、やっぱり障害を持つ兄に対する想いもありました」
卒業後の26歳、上田さんは長崎大学の内科へ。しかし長く気持ちが続かず2週間で辞めようとした。上司からしばらくは居なさいと説得されたものの、気持ちが変わることはなく1年で辞めてしまう。
「フラフラしてたんでしょうね。何をしたらいいか本当にわからなくて行っているので、大切さが理解できていないんですよね。内科学というのは全部をできないといけないので、皮膚科学の一つのこの分野だけを究める、みたいなところに憧れがあったのかもしれません」
壁にぶつかった過去
その後別の職場に移った上田さんの前に、人間関係という試練が立ちはだかる。
「上司からとても厳しい態度を取られたり、理不尽な言葉を浴びせられることがありました。しかし、当時の自分には自信がなくて反抗もできない。医療業界は狭く、どこかで繋がっているので逃げ道もない。『どうして自分がこんな目に合うのか?』と自分を責め続けて、ついに精神を病むほど自分を追い込みました。医者の自分が精神科に行ったのが本当に恥ずかしかったですね。心が一時的に風邪をひいたような状態ということでした」
相談した周りの人から、『あなたが優しすぎるのがいけないのでは?』と言われて悩みました。優しすぎるのはいけないことなのかと。昔から自分も兄貴のことで馬鹿にされたりしたせいで、いろいろな部分でなにか引け目に感じていたんでしょうね。2012年からのしばらくは、自分が生きていく上で何を大切にして、何をすべきなのかがわからず、彷徨う時期が続きました。心のどこかにはいつも他人と比較をして勝手な解釈で落ち込んでいる自分がいて。医大に出してもらったときも、今思えば勝手に殻にこもっていました。周りの友人はお金持ちばかり。私はクラスでも断トツ一番の苦学生。自分は馴染めないなと思っていたんです。医大に通えただけでも恵まれているはずなのに、勝手な劣等感があったんだと思いますね。」
医療業界の洗礼を受けた上田さんは、見返すために、業界のナンバーワンに立とうと業績を突き詰めた時期もあったという。しかし、自分の気持ちが満たされる事はなかった。悩み、苦しみ、自分と向き合う中で上田さんは父、そして亡くなった母の生き方、障がいを持つ兄への姿勢を改めて考え、自分の中で困った人に手を差し伸べるということが自然と自分の目指す姿になっていることに気づいた。自分の行動を駆り立てるもの、原動力はこれであると。自分の原動力は他人を見返すことではないということがはっきりとしたとき、心の中で何か温かい気持ちがわき起こり、感謝の気持ちが溢れたという。そして自分がこれまで抱えてきた劣等感や過去の辛い経験、自分の持つ優しさがあるからこそ、むしろそんな自分だからこそできることは何かを意識するようになった。そして患者さんはもとより上田さんに関わるすべての縁ある人を本当に大切にする、優しく穏やかな組織を作りたいという気持ちが芽生えてきた。
上田皮ふ科を設立へ
上田さんは自分との様々な葛藤の期間を経て、2015年に独立。上田皮ふ科を設立した。
「やっぱり心の中には兄貴がいたり、両親は何をしたかったのかなとか考えました。両親が、兄貴がサポートを受けているところでボランティアとしてお手伝いをしてたことを思い出したり。自分には、過去の嫌な経験をしたからこその優しさがあるなと思いました。みんなの幸せを本気で考えられる経営者ってどういうことかなと考えたら、人間関係も業績も良いという組織を作る。さらに医療だけではなくて、福祉もやりたい。そういった卓越した組織って面白いんじゃないかなと思いました。兄貴や両親はそれを求めていたと思いました」
上田皮ふ科は、人の役に立つこと、喜んでもらい、ありがとうの声を集めることを目標とし、受付やカウンセリング、医者などの役職は関係なく、患者さんの感動を目指す組織づくりを行なっている。患者さんの悩みと、医者のギャップがあってはならない。過去にお兄さんのことでからかわれたことや、医療業界の洗礼を受けた辛い経験から、痛みをかかえた人の気持ちがよくわかるという上田さん。だからこそ、創造できる医療者としての在り方があり、それは過去の経験を活かした、現在の優しく丁寧な対応と密接に繋がっていた。
「みせ」の記事につきましては、以下をご覧ください。