長崎の老舗 創業延宝三年 高野屋 十四代目 高野正安さん(長崎県産品取材編:長崎市)

写真・編集

高野屋の歴史を継承する十四代目、高野正安社長

「うちは細く長く、まじめにコツコツやっているだけですよ(笑)」と気さくな人柄の高野正安社長は、なんと十四代目。戦前、看板商品のからすみを宮内省内蔵寮に納めていた時の資料や、店頭でポーズを決める先代の色あせた写真などを見せていただきましたが、建物も含めてそのほとんどは戦火により焼失してしまったそうです。それでも、高野社長の話と店内を綾なす当時の看板や碑文により「高野屋」の歴史はくっきりと知ることができました。

越前のうに、三河のこのわたと並び、江戸時代から日本三大珍

越前のうに、三河のこのわたと並び、江戸時代から日本三大珍味のひとつに数えられる肥前のからすみ。古くはギリシャやエジプトなど地中海沿岸を起源として広まり、日本には承応年間(1650年代)に中国から伝来したといわれています。延宝3(1675)年に創業した「高野屋」はボラの卵巣で製造する〝長崎からすみ〟の元祖。昔ながらの手づくりにこだわり、極上の味わいを今も大切に守り続けています。

高野屋さんの「みせ」のご紹介はこちらから。

長崎からすみのはじまりは“野母からすみ”から

「高野屋」の初代、高野勇助さんは熊本県八代地方に生まれ、元和6(1620)年頃に父・九右衛門さんが出島の埋め立て工事に携わる際に長崎へ移り住みました。その後、勇助さんが魚市場(船着場)のあった現在の万屋町近辺で魚屋を開きました。その頃、大阪へ行く機会があった勇助さんは舶来品のからすみに出会い、大変興味が湧きました。からすみはサワラなどの卵巣で製造するのが大半でしたが、勇助さんは長崎半島の先端部に位置する野母崎で、良質なボラが水揚げされていることに目を付けました。新鮮なボラの卵巣と、研究を重ねた独自の手法により、今までとはものが違う“野母からすみ”が完成しました。これが現在の“長崎からすみ”の原型となっています。 また、“野母からすみ”は当時の長崎奉行に差し上げると称賛を受け、徳川家にもたいそう気に入られました。そして、「高野屋」は幕命のもとで正徳2(1712)年から慶応3(1867)年までの156年間、他の長崎俵物(海産物加工品)と併せて〝野母からすみ〟を献上することとなりました。このことで、肥前のからすみが世間に広く知れ渡るようになったと碑文に刻まれています。

高野屋の味を守ること

初代が考案した“野母からすみ”は、その製法を代々受け継がれて“長崎からすみ”に発展し、今も変わらず長崎を代表する珍味として名声を博しています。「うちは一子相伝でやってきました。初代の思いを次に引き継ぎ今があります。私もいずれは次男に引き継ぐつもりでいます」と高野社長は話します。写真は十三代目のお父様(現会長)と撮影させていただきました。

地域を長崎を愛する高野社長

高野社長は「長崎くんち」が近づけばそわそわする生粋の長崎人。大学卒業後に東京の企業へ修業に出ましたが、7年ごとに回ってくる踊町の当番と重なったため、3年の予定を2年に縮めたほど、地域を長崎を愛しています。「長崎からすみは加工品なので食べ方は自由。皆さんおつまみやパスタなどいろいろな食べ方をして楽しまれています。私はそのまま切って食べるのが一番好きですね」と高野社長。肥前国から愛される伝統の味を、ぜひご自宅で楽しんでください。

高野屋さんの「みせ」のご紹介はこちらから。

高野正安

高野正安(有限会社 髙野屋)

長崎大学経済学部卒業後、東京都内の渋谷にある水産加工の大手企業で修行し、1986年、26歳の時に帰郷。2015年より代表取締役に就任。「長崎くんち」が近づけばそわそわする地域を長崎を愛す生粋の長崎人。十四代目として高野屋の味を継承している。