『株式会社フルカワ』は1951年の創業以来、長崎県を拠点にお菓子の卸や小売を行っている菓子問屋である。大村市内にある本社の1階は『オカシノフルカワ』というお菓子ショップになっており、子供たちはもちろん、駄菓子をおつまみとしてたしなむ大人たちにも人気のスポットだ。
代表取締役社長を務める古川洋平(ふるかわようへい)さんは、菓子問屋としての可能性を広げようと次々にチャレンジを続けている。これまでも、イベントなどで大活躍の詰め合わせセット『くいしんぼうパック』の販売をはじめ、長崎名物のそのぎ茶や長崎珈琲、チョーコー醤油などを素材としてふんだんに使用したオリジナルシリーズ『九州じげもん街道』の開発などを手がけている。
菓子問屋に生まれた洋平さんは、幼いころから直感や興味のおもむくままに人生の海を旅してきた。洋平さんが漕ぎ出す船は、これまでどのような航海を経てきたのだろうか。
思いっきり謳歌した青春
洋平さんは長与町生まれ。幼いころから漫画やアニメが大好きな少年だった。当時はドラゴンボールやガンダムが好きで、自分でも漫画を描くほど熱中していたという。その一方で、誰かに無理やりやらされたり、やりたくないことを続けるのは大の苦手。そのせいか、小学生の頃に親のすすめで始めた野球やソフトボールはすぐに辞めてしまった。
中学ではバスケ部に入部。当時はスラムダンク全盛期でもあり、バスケ自体にも大いに励んだが、部活の友人たちと過ごすのが何より楽しかった。高校でもバスケを続け、部活に恋に遊びにと青春を思いっきり謳歌する日々。つるんでいた仲間たちと共に過ごした日々は、洋平さんにとってとても刺激的なものだった。
その後、周囲から大学進学をすすめられたが「何のために大学に行くのか分からない」ともやもやを抱える毎日。なかなか大学への興味を持つことは難しかったものの勉強を重ね、福岡市内にある九州産業大学経営学部への進学を決めた。
大学ではアコースティックギター同好会に入会し、以来音楽に夢中に。同好会では弾き語りでヒット曲をカバーしたり、オリジナル曲を作ったりしながら月1回の校内ライブにも出演。また、そのサークルでは後に妻となるレイナさんと出会い、お付き合いを始めることとなった。
洋平さんにとって、大学の授業の中で特に印象的だったのは『問屋不要論』の授業だった。教授がどんどん話をすすめるうち、思い浮かぶのは菓子問屋を営む実家のこと。「この先、問屋業が無くなるかもしれない」と頭をよぎったが、家業を思えば父親が大変そうに仕事に勤しむ姿しかイメージできず、どんな仕事をしているのかを詳しく聞いたこともなかった。
好きなことでなければ、面白くなければ仕事じゃないと考えていた当時の洋平さん。問屋不要論は衝撃的だったものの、家業へ興味を抱くのはまだまだ難しかった。
本能がみちびく先は
大学卒業後も音楽の道を突き進もうと「2年時間をください」と両親を説得し、福岡に残ることに。箱崎にあるドン・キホーテに勤務しながら福岡市内のライブハウスで演奏したりレコーディングにも励んだが、残念ながら芽は出なかった。
長崎に戻り就職しなくてはならないことにどうしても意欲がわかず、洋平さんは精神的に不安定になってしまう。あれこれどうしようと考えているうち「そうだ!外国に行こう!」とひらめいた。すぐに支度をはじめ、洋平さんは26歳でイギリスに飛び立った。
イギリスには1年にわたり滞在。語学学校に通いつつ、現地でアルバイトをしながらビートルズゆかりのリバプールなど様々な名所も訪れた。また、当時興味を持っていたインテリアの本場ということもあり、見聞を広めることもできた。英会話も日常的なやり取りであれば問題ないほどのレベルになったという。
帰国してからは久留米市で高級ウイスキーを売る営業の仕事をしながら、夜はインテリアの専門学校へ1年間通学。その後CADの技術を身に付け、ソフトウェア関連企業に就職したものの、たたき上げで精力的に業務をこなす同僚たちについて行けず、精神的にダウンしてしまった。
そのころ、レイナさんが海外を放浪するという話を聞きつけ、思い切って会社を辞め合流することに決めた。しばらくしてレイナさんとストックホルムで落ち合い、1か月間ヨーロッパを放浪。その旅の最中で洋平さんはプロポーズし、ふたりは結婚することになった。
それからは友人の誘いで、博多でゲストハウスを仲間と共同運営することに。洋平さんは立ち上げから2年にわたって勤めたが、運営を仲間に任せていよいよ長崎に戻ろうと決心する。その後、送別会の帰りに自転車事故で大ケガを負うアクシデントに見舞われたものの、どうにかフルカワへと入社。洋平さんが30歳ごろのことだった。
洋平さん「実家に戻ると決めた時は、やっぱり後悔したくないっていうのがあって。自分のルーツを知らんと後悔するっていう思いがその時に自分の中でしっくり来たんです。だから一番長く続いてるんですよ、今の仕事が(笑)」
意識が変わったできごと
洋平さんは当時佐世保市内にあった本社で、フルカワのいち社員として業務をスタート。数年の営業経験を経て、社長に就任した。入社当初はお菓子や問屋業にあまり関心を持てなかった洋平さんだが、次第に意識が変わっていく。
きっかけになったのは、とあるイベントに出店した時のこと。それまでも数々のイベントで何度も出店をしてきたが、スーパーなどでも売られているような既製品を販売しているため、他の出店者と比較するとどうしても店としての魅力が弱いと感じていた。
そこでお菓子に“遊び”を取り入れてみようと、お菓子のつめ放題を実施することに。そうするとたちまち子供たちが集まり大繁盛。夢中になってお菓子をつめる子供たちの楽しそうな表情や、見守る親たちの様子を見て洋平さんにある気付きが芽生えた。
洋平さん「自分たちが今まで1個1個を売るっていう問屋業になかなか魅力を感じなかったんだけど、お菓子を売ることに対する認識を別のものに組み替えたら、面白いことができるんじゃないかってその時に思って。それでお客さんたちが寄ってきてくれたり、試してくれたり買ってくれたりっていうのは、すごく大きいことかなと」
この出来事を経たことで、お菓子にはそのものの美味しさだけでなく、遊び・学びを楽しむ力やお菓子を味わう時間・空間、そしてライフスタイルにも繋がる力があると感じるようになった洋平さん。菓子問屋を長年営んできたからこそのフルカワの特性を活かし、お菓子の魅力をよりたくさんの人に届けられるよう、次々と新たなジャンルへのチャレンジを始めた。
洋平さんが手がけたのは、フルカワのキャラクター『フ〜くん』の発案や、製菓会社とコラボレーションしたオリジナル商品の開発など。あくまで“業者”という問屋のイメージを取っ払って、親しみを持ってもらいたいという思いあってのことだ。そして現在はフ〜くんを主役にした絵本を作ろうと構想を練っているところだという。
洋平さん「これまで、自分の人生は充実してないって思いながら生きちゃってて。何かに不自由してるかっていうとそうじゃないんだけど。でも、今こうやってお菓子の仕事をさせてもらって、充実しててやりがいもあって。業界的には厳しいけど、まだまだやれることがあるんじゃないかって思えることは、すごく精神衛生的にも良いんです」
いま世界でいちばん面白い菓子問屋『株式会社フルカワ』。キャプテン洋平さんは、たくさんの仲間を引き連れてさらなる大海への冒険に挑んでいく。
株式会社フルカワの「みせ」の記事については、以下をご覧ください。