コミュニティデザインの力で人とまちを繋げる『長崎居留地歴史まちづくり協議会 岩本諭さん』

取材

文 / 写真

写真

公開取材動画配信 / 編集

いとなみ研究室がおくる「ひとこと講座 -公開取材とローカル編集-」の公開取材企画・第4回は、長崎居留地歴史まちづくり協議会の事務局を担う岩本諭さん。

1990年生まれ、大分県宇佐市出身。大学進学を機に長崎へ移り住み、現在は長崎らしい斜面地に暮らしながら、住民主体によるまちづくりのお手伝い(=コミュニティデザイン)を実践する。

ニックネームは「ろん君」や「ろんさん」。下の名前「諭(さとる)」が「論(ろん)」の字に似ていることに由来する。中には、岩本論(ろん)が本名だと勘違いしている人も、いるとかいないとか。

県外出身の岩本さんがなぜ長崎にやって来たのか、なぜコミュニティ・デザイナーを志すに至ったのか。その幾つものルーツを紐解いていくと、1人の若者が次々と新しい世界の扉を開いていく、物語の変遷が見えてきた。

岩本諭を構成する3つの生業

多数の顔を持つ岩本さんだが、自身の拠点である地域が旧外国人居留地であることから、その歴史を生かしたまちづくりにも携わる。今回の公開取材では、長崎居留地歴史まちづくり協議会(以降、「歴まち協議会」)の事務局として登壇。

会場は、居留地に現存する洋館。

岩本「本職はコミュニティデザインという仕事をしており、『つくるのわデザイン』という屋号を持っています。今までには、市民参加の公園づくりや、地域自主運営組織の計画策定などを支援してきました。僕のアイデンティティとしては、大きく分けて3つ。個人のフリーランスで活動している『つくるのわデザイン』、斜面地の空き家を活用した『つくる邸』、そして『歴まち協議会』の事務局と言った3つの顔があるなと思っていて」

まず、最も仕事に直結するのがコミュニティデザインの部分。県内各地でその珍しい職能を活かしている。例えば、長崎市の「あぐりの丘」では、公園の活性化を目指したパークマネジメントを請け負った。

また、コミュニティデザイナーとして手がける範囲は“地域”という枠だけに留まらない。「ながさき若者会議」で若者の居場所づくりをしたり、建設予定の長崎スタジアムシティ前にあるJR高架下を活用するアイデアワークショップを開いたりなど、地域・年代・プロジェクトといったジャンルは多岐に渡る。

岩本「ハコモノ(建造物)を作って『どうぞ、地域を盛り上げてください』ではなく、地域に住む人たちの意見を一緒に聞きながら、いかに公園や地域、コミュニティを盛り上げていけるか。それを後押しするような仕事です」

そして、ここからは地域の話。

今回の取材場所である「南山手町並み保存センター」から坂を登ること5分程。そこに広がる坂のまちで、築70年の古民家「つくる邸」で暮らしている。つくる邸は、空き家だった家屋をシェアハウス兼コミュニティスペースとして地域に開放しながら、斜面地の暮らしを発信をする拠点の一つ。

この場所で自身の日常を送る傍ら、地域の住民を呼んで食事会やお茶をすることも。人口減少と高齢化が進む坂のまちで、豊かな暮らしぶりやその魅力を伝えるような活動に取り組む。

そんなつくる邸に移り住むこと8年。岩本さんがさまざまな地域活動に携わる中で、2020年に歴まち協議会が設立される。これまで共にまちづくりに取り組んできた地域の先輩方と肩を並べて、協議会の一員として事務局で活動するに至った。

岩本「簡単に言うとですね、僕のライフワークとお仕事は、どっちもまちづくりに関わる仕事と活動しています。ライフワークとしてつくる邸の活動や空き家活用をしながら、仕事として歴まち協議会の運営やワークショップをする。そんな生き方をしています」

「どれもが直接的にお金を生むものではない」という説明を添えて、岩本さんは自身の生業について紹介した。仕事と趣味(?)の境界線が限りなく曖昧な、地域に生きる人材なのである。

ルーツはミスチルのライブDVDと、オオサンショウオ。岩本少年、環境問題に出会う

話は、岩本さんの生い立ち・幼少期までさかのぼる。

岩本「僕が生まれたのは、大分県宇佐市の中でも、高並地区という人口400人ぐらいの地域でした。ちっちゃい山の上の方にある集落で爆誕しました!(笑)。ある時はバス釣りにハマって、友達同士で結成したバス釣り愛好会の会長をしたり。自然の中でのびのびと育ちました」

山々に囲まれた環境で、自然や生き物にふれながら暮らす毎日。すくすくと成長していく中で、学生時代の多感な時期に、一つの運命的な出会いが訪れる。

岩本「当時から今でもMr.Childrenの大ファンなのですが、2006年に彼らが主催する『ap bank Fes』というライブDVDを観たんです。そこではマイ箸マイカトラリーが推奨されていて、自然エネルギーを使ってスピーカーの音が流れ、最後にはサポーターがゴミ拾いをして帰っていく。僕はただミスチルが好きだから観ていたんですけど、ステージの上では自分が好きなアーティストが環境問題について訴えていました」

当時、ちょうど地球温暖化が叫ばれていた時期。「もしかして、森林や山が無くなっちゃうのかな」。岩本少年が、環境問題に関心を抱いたきっかけだった。

そして、環境問題に興味を持ったすぐ翌年。とある天然記念物の存在が、のちに岩本さんを長崎に導くこととなる。

岩本「『オオサンショウウオ』って知っていますか? 僕の地元に生息している、天然記念物なんですけど。名前の通り本当に大きくて、体長が1mぐらいあったりします。僕の地元が九州有数の生息地でした。高3で野球部を引退してから、周りが受験勉強を始める中、僕は生物部に入ってこのオオサンショウウオを研究し始めることになります……!」

オオサンショウウオは繊細な生き物で、冷たくて綺麗な水でないと生息できない。岩本さんは、地球温暖化・CO2の影響によりオオサンショウウオの数がどんどん減っている問題について研究に取り上げた。

それがなんと、高校で論文発表したところ、審査員奨励賞を受賞する。

岩本「先生たちから勉強は諦められていました(笑)。でも、この研究のおかげで入試をクリアして大学に進学できました。そうして、環境について学べるところが無いかなって探した時に出てきた、長崎大学の環境科学部に入学することになりました」

ライブDVDを観て環境問題への関心が引き起こされた後、目の前には天然記念物がいて、なんだかその存在が危ぶまれていた。岩本少年が出会った環境問題というテーマは、長崎、そしてまちづくりへと発展していく。

家族からの影響と、世間から注目を集めていた原風景

ちなみに、岩本さんの家族構成はというと、両親に加えて、歳の離れたお姉さんとお兄さんがいる。

岩本「親は公務員なんですけど、兄ちゃんも姉ちゃんも僕よりもパンクロックな感じで。当時、髪の毛の色が青や緑だったこともありましたね(笑)。かなり田舎に辟易していて、やんちゃしている姿を見てましたね。でも、2人がいなかったら僕は外の世界を見ることはできなかったと思います」

お姉さんは絵の専門学校へ、お兄さんはアパレルの専門学校へ進学。また、音楽を好きになったのも彼らの影響が強く、学生時代からギターを弾いてバンドを組んでいた。

また最近は両親の活躍ぶりも面白い。母親は仕事をリタイア後、数年前に自営業のパン屋をオープン。道の駅に卸したり、マルシェに出店したりと注目の展開を見せている。さらに、父親が地元のまちづくり協議会の事務局を務めており、地域の総合計画を策定する際に、コミュニティデザイナーである岩本さんがコーディネーターに抜擢された。

というように、岩本さんの家族間においても、自分らしさを表現する芯の強さやまちづくりの姿勢が備わっており、現在の生き方に通ずる土壌があったようだ。

岩本「あと、地元・宇佐市にある安心院(あじむ)という地域は、グリーンツーリズム発祥の場所なんです。当時はよく分かっていませんでしたが、東京や大阪からたくさんの人が訪れる様子を『こんなに田舎なのに何しに来るんだろう?』と不思議に思っていました。いろいろと勉強した今だからこそ、そういうことだったんだと分かりましたね」

岩本さんが幼少期からふれてきた環境が、観光資源になるほどの豊かな自然だったことは、無意識下で岩本さんの価値観に影響を与えているかもしれない。

被災者の言葉にふれて、コミュニティの大切さを痛感

それから、岩本さんが大学2年生のときだった。2011年の3.11、東日本大震災が起きる。被災の映像などを見るたびに、自分も何かしたい、助けになれることはないか、と考えていた。

震災後すぐに誕生した長崎の学生によるサークルは、ボランティアで現地へ向かっていた。岩本さんもそのサークルに参加し、半年後に宮城県石巻市を訪れる。そこで交わした被災者の言葉が岩本さんに新たな指針を示した。

岩本「石巻で出会った人たちの話を聞くと、普段からご近所付き合いがあった地域とそうでない地域とでは、前者のコミュニティが深いほうが逃げ延びた人が多かったそうなんです。津波が来るとか来ないとか、声掛けがあったみたいで」

岩本さんは、むしろ大分ではご近所付き合いが当たり前な暮らしを送っていた。しかし、長崎に来てからは普通のアパートに住み、お隣さんや自治会長のことも知らない。震災は、いざという時にはその地域の繋がりが助けになるかもしれないことを教えてくれた。

岩本「田舎だなと思っていた地元の暮らしにも、そういう良い面もあったよなって気付くことができました。そんな震災ボランティアの体験があったからこそ、地域に繋がった暮らしをしていきたいなと思い始めたんです」

そうして、つくる邸での活動へと発展していくことになった。

暮らしを見つめ直すことが、環境を守ることに繋がる

また、岩本さんの価値観に大きな影響を与えた体験がもう一つある。

岩本「震災の後、ドイツのフライブルクを訪れるエコツアーに参加し、2週間だけ留学に行きました。ドイツはすぐに脱原発へと舵を切った国。現地でドイツ人から『ジャパニーズ、日本は大丈夫か』『私たちの地域は原発のエネルギーに頼らない社会をつくろうと思っている』などなど、たくさん声をかけられたり、デモが起きていたりしたんです」

この時、岩本さんは「恥ずかしい」と感じた。ドイツ人のほうが日本やエネルギーのことに関心があって、日本人である自分はそれについて何も答えられない。

震災の時にも感じていたことだが、社会を知ることで世界が広がる面白さを覚えるのと同時に、もっと勉強したいなという悔しさもあった。

さらに、ドイツ人の暮らしぶりやまちの在り方にも感銘を受ける。

岩本「フライブルクは世界環境首都と言われている場所です。レジ袋は当然のように使わないし、車じゃなくてみんな自転車に乗っている。当たり前のように環境に配慮しているドイツ人の姿が衝撃的で、なんかもうかっこよく見えたんです」

高校時代に環境問題を知り、「地球温暖化はよくない!生態系を守ろう!」という意思で、環境を学ぶために長崎の大学へ進学した岩本さん。それから震災が起きて、原発の問題などに直面し不安定になった社会情勢から影響を受けつつも、人と人との繋がりの大切さを再認識。

そんな価値観の過渡期に大きな変化をもたらしたのが、ドイツの環境に配慮したまちづくりを目の当たりにしたことだった。同じ“環境”というテーマでも、元々興味があった環境保全ではなく、人間の生活をより良くしていこうという“営み”に目がいくように。

岩本「環境に配慮した暮らしを送っていれば、その結果としてオオサンショウウオも生きやすい社会になるんじゃないかと。そう考えたら、『オオサンショウウオを守るぞ!』というよりかは、自分たちの暮らしを見つめ直さないと駄目だなって思ったんです」

「持続可能なまちをつくってみたいな」「地域の人たちと繋がった暮らしがしてみたいな」。空き家を活用したつくる邸での暮らしは、多様な経験を積んできた岩本さんが行き着いた一つの自己表現なのであった。

求めていた答え、「コミュニティデザイン」

活発に社会活動へと勤しむ岩本さんは、大学・大学院と長崎で過ごす。居心地もよく、応援してくれる先輩たちもいる。卒業後も、長崎でこのまま頑張るのもいいかな。そう思っていた時に、またもや好機が訪れる。

岩本「ある本を読んで、『studio-L(スタジオエル)』という会社の存在を知りました。そこが実践していた、人と人を繋いでまちを良くしていくコミュニティデザイン。これだって思いました」

なんともタイミングが良く、studio-Lが長崎であぐりの丘のプロジェクトを始めることを知った岩本さんは、「何でもさせてください!」とお願いをしてインターンとして働くことに。岩本さんのコミュニティデザイナーとしてのキャリアは、ワークショップの参加者兼スタッフ見習いから始まった。

岩本「震災で感じたこと、ドイツで見たことの答えを、studio-Lがやってるように見えたんですよね。そのままインターンを続けて、あぐりの丘のプロジェクトを長崎にいる自分が請け負う形で大学院を卒業しました」

ここで少し遡って、高校時代の野球部の話へ。

当時、とてもリーダーシップのある人がキャプテンを務めており、岩本さんは副キャプテンだった。キャプテンはみんなを引っ張っていく力がある分、中にはそれについてこれない部員も出てくる。岩本さんは、そんな人たちの話を「うんうん。そうだね」と聞いてあげるポジションだった。

前列・左から2番目が岩本さん

今も昔も、リーダーはあんまり得意じゃない。しかし、リーダーシップを発揮して頑張ってる人を支えるのが好きなのだという岩本さん。リーダーと部員たちの心が繋がる瞬間が好きだった。

岩本「コミュニティデザインという仕事も、僕がみんなの前に立って『こんな街にしましょう』と旗を立てるわけじゃなくて、地域の人たちに『どんな街にしたいんですか?』と聞いていきます。やっぱり僕たちは主人公になりきれないっていうか、なったらいけないんですよ。僕はstudio-Lに5年間ぐらい在籍したんですけど、代表の山崎亮さんから受けた影響はかなり大きかったなと思います」

岩本さん曰く、山崎さんが地域を訪れた際には、住民に対してとにかく“答え”を言うことはない。きっと課題を解決できるヒントやさまざまな知見を持っているだろうが、ひたすら“問い”を投げかけ続けるのだそうだ。

外からやってきた専門家が処方箋をトップダウンで提示して終わるまちづくりではなく、「何がこのまちの良いところですか?」「なぜ好きなんですか?」と聞き続けて、共に考えるプロセスを共有していく。

カリスマ的なリーダーがいるよりも、こうやって進んでいく地域のほうがしなやかで持続可能なまちになるのだ。岩本さんはファシリテーターとして大切な考え方を教えてもらい、それを現在も自分の指針にしている。

地域に暮らす実践者であり続ける

取材中は、岩本さんの収入面や、地域活動・まちづくり活動をする上でのポイントなど、たくさんの質問が寄せられた。中でも、地域との繋がりのつくりかたは、皆が気になる肝の部分。

岩本「継続することかな、と思います。つくる邸の活動も、最初は大学生である僕らが地域に飛び込んで行って……という始まり方で、なにやら卒業してもずっとあそこにいるな、と思われていたはずです(笑)。長く続けていけば、それだけ本気度が伝わって、地域側の見方も変わってきました」

ある時は、一歩引いた目線で地域住民の想いを引き出すコミュニティデザイナー。またある時は、自分自身が地域と繋がった暮らしを体験し続ける実践者。この両軸があるからこそ、感じ取れるもの、汲み取れるものがあるに違いない。

公開取材の様子はこちらから。

岩本諭さんの「長崎居留地歴史まちづくり協議会」の記事はこちらをご覧ください。