漁業の商いセンスは天然物。『天洋丸代表・竹下千代太さん』

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雲仙市で話題!漁業界を盛り上げる天洋丸のアイデア大将

雲仙市南串山町生まれの竹下千代太さん。漁業・養殖・水産加工品の製造販売などを手掛ける株式会社天洋丸の代表取締役だ。

“天洋丸”という一目で漁業の会社だと判る社名でありながら、雲仙市の逸話を元に生まれた「じてんしゃ飯の素」、SDGsと漁師のお仕事PRを兼ねた「網エコたわし」、コロナ禍を逆手に取った漁業インターンシップ「一年漁師」など、知れば知るほどみんなの“漁船”のイメージからかけ離れたもの・ことだらけ。

そんな天洋丸の大将こそ、漁師というより商売人なひと・竹下さんなのだ。ユニークかつ、きちんとツボを押さえた“攻め”の商品と企画をポンプのように世に送り出す、発想の源の正体や如何に……!

ルーツには経営者としてのセンスと、村長としての器

まずキャッチーなのが、名前の千代太(ちよた)。苗字が竹下さんでもあることから、歴史好きな人は「徳永家康の幼い頃の名前『竹千代』だ!」と連想する人もいる、かもしれない。

竹下「名付けたのはうちのじいさん。僕が生まれた時に『もう名前の届け出を出してきたぞ』って、勝手に決められてました(笑)」

と、豪快な祖父のセンスによるもの。天洋丸の歴史も、この祖父から始まるのだ。

天洋丸が現在も取り組む「まき網漁業(※)」は、祖父がいくつかの船と共同で出資し、自ら魚を獲る漁師ではなく“船のオーナー”として始めたことがきっかけだった。

竹下「じいさんは漁師というよりも、元々は仲買をしていた商売人。まき網漁は人数が必要だから、複数の船で船団を組んで、ある程度のまとまった資本がないとできなくて。それから徐々に他のオーナーが抜けていって、うちのじいさんだけが最終的に残ったんですよね」

(※)まき網漁業……灯りに集まった魚の群れを大きな網でぐるりと囲み、網をしぼって小さくしていきながら漁獲します。複数の船がそれぞれ明確な役割を持っており、チームワークが重要となる漁です。(天洋丸HP内「天洋丸の漁」より引用)

天洋丸 漁の様子

ちなみに天洋丸の名付け親も祖父。当時、漁船に「〇洋丸」という名前を付ける流行りがあったそうだ。

竹下「じいさんは村の村長でもあったから、小さい頃の記憶は漁師よりもそっちのほうが強いんです。タバコ吸いながらいつもウロウロしとって、家に人の出入りも多かったですね」

漁師の経験はもとより、本来の気質としては“商売人”だったり、“コミュニティの中心人物”の色が濃い家系にあるようだ。

商売人の素質が光る。サザエ売りの少年

祖父はオーナーとして沖に出ることはなかったが、竹下さんの父の代からは船に乗って漁師として海に出ていた。

幼少期の竹下さんは、船に乗って遊んだり素潜りをしたりと、漁師の息子らしい一面を見せるが、「漁師になるつもりは全くなかった」とのこと。

父からは、「自分の後を継いで漁師になってくれ」と言われることもなかったそうだ。

竹下「当時の世間的には、漁師で自分の子供に継がせたいと考える人は少なかったんですよね。こんなキツくて割に合わない仕事をさせたいと思わないって。だから、漁の手伝いで船に乗ったことはほとんどなくて。港に停まっとる船に、勝手に乗り込んで遊んでただけです(笑)」

天洋丸 南串山の風景

釣りにも興味がないという竹下さん。もっぱら、“素潜り専門”だった。

竹下「中学生の頃は、海に潜っていっぱいサザエを獲ってましたね。同級生の中では一番深く潜ってたんじゃないかな。そのサザエを漁協に持っていけば、売れるでしょ? だから、金になるんですよ(笑)」

早くもビジネスの才能を光らせていた竹下少年。さらには、たこ焼き屋さんにタコを持って行っては、物々交換でたこ焼きを食べさせてもらっていたらしい。(タコの代わりにちくわ入り)

天洋丸・竹下千代太さん

隠しきれない商売っ気を持ちつつも、海との関わりは地元・南串山町で過ごした中学時代までで一時中断。街への憧れで長崎東高校へ進学し、実家を離れて下宿を始めた。

竹下「東高の繋がりには、今でも助けられていますよ。社長とか、商売人が多いです。でも、どっちかと言えば僕は、理系の“落ちこぼれ”クラス。みんな大学落ちて浪人してたんだけど、近くのパチンコ屋に行けば同級生がたくさんいましたね(笑)」

竹下さんは姉・妹・弟がいる4人兄弟だが、みな進学で雲仙市を離れ、長崎市内で4人一緒に暮らしていた時期もあるという。

竹下さんの憧れはその後も都会に向いたまま、浪人生活を経て、東京の大学へと進学することになった。

“水産”を突破口に、憧れで都会へ

2年間の大学浪人の末、長崎を旅立つことになった竹下さん。進学したのは、東京水産大学(現・東京海洋大学)だった。

あれ? 漁業に興味ないんじゃなかったの?

そんな疑問が湧いてくるが、竹下さんのスタンスは変わらない。

竹下「東京の大学だけど、水産系の学部や大学は比較的、偏差値がそこまで高くないんですよね。だから、一応自分の中では身近なものだったし、狙いやすい水産大学を選んだって感じです。三度目の正直で入れましたけど(笑)」

あくまでも水産や漁業への興味ではなく、都会に行くための手段。竹下さんは大学の敷地内にある寮に住み、キャンパスライフが始まった。

竹下「思い描いていたような都会の生活ではなかったですね。男ばっかりの寮でしたし。でも、同じ釜の飯を食った仲間との繋がりは今でも強いです。東高の同窓生と同じく、仕事でよく助けられてますよ」

寮生は伝統的に体育会系の部活に入る慣習があり、先輩の勧誘で半ば強引にカッター部へ。しかしそのまま4年間運動部として真面目にやり遂げた。

酔っ払って試験に寝坊した日も、寮の友人に起こされてバイクで送ってもらうなど、周りの力に頼りながら学業もうまくやっていたそうだ。これも竹下さんの人柄なのか、サザエでお金を稼いだり、東京に行くために水産大学を選んだりと、一貫して“生き方”が上手い。

竹下「漁師になるつもりはなかったけど、たまたま身近に水産の世界があって。その道に進学すれば、自然と就職先もそっち系になるわけで。特に目標もないままに、ずるずると進んでいってしまったような感じでした」

雲仙市から長崎市へ、そして東京へと世界を広げていく竹下さん。元々漁師になるつもりはなかったけれど、仲間と青春を送りながら、海の仕事に携わる将来へと道を固めつつあった。

4年間で大学は無事に修了し、1年間の乗船実習へ。合計5年間の大学生活を終えて、大手水産会社に就職した。竹下さんが25歳になる年だった。

大きなマーケットで、ビジネスの経験を積み上げる

就職してから最初に配属されたのは、まき網漁業課。たまたま家業と重なった。

竹下「現場で船の人と一緒に水揚げしていました。海外まき網船がミクロネシアで獲ってきたカツオの水揚げで、焼津や枕崎へ。近海まき網では、釧路や新潟、銚子、八戸など船の行き先に駐在員として寝泊まりしながら何ヶ月もかけて船を追っかけて行くんです」

住まいは東京にあったが、ほとんどが長期出張で現場に出ている日々であった。

天洋丸 漁の様子

その後は、加工食品の部署に異動。山形・仙台・名古屋など、こちらでも日本各地に転勤を繰り返した。取引先のスーパーを営業で周ることもあり、新店舗がオープンする時などは、販売の手伝いをすることも多かったそう。

竹下「やっぱり人間だから、ちょこちょこ手伝ってくれるメーカーの商品を置いてやろうって気持ちになるんでしょうね。でも、一時期問題になったので今はそういった労務提供はあんまり無いと思います。そもそも、売れる・売れないではなくて、力関係でどの商品を棚に置くかを決めてもダメですよね」

バイヤーがきちんと見極めずにメーカーの商品をどんどん並べていったことで、商品が回転せずに長続きしなかったスーパーを竹下さんは幾度も見てきた。消費者の立場に立って、本当に売れる商品を考えることの重要性を肌で感じていたようだ。

竹下「商品開発の提案をすることもありましたね。その時は、現場の営業担当の意見を聞きます。不思議なことに、自信がある商品はいまいちで、『この新商品はちょっと評判よくないんじゃない?』と思っていたら結構売れたりするんです。だから、自分にセンスは無いなって(笑)」

天洋丸・竹下千代太さん

竹下さんはそう卑下するが、現在の天洋丸から発売される商品の数々は、面白いストーリーとキャッチーな名前が際立つ。そして、それらを汲み取ったパッケージデザインがあしらわれている。

竹下「今はデザイナーに頼んでますからね。大元の発想とか、アイデアのたたき台は僕も出しますけど、思いつきだけ。きちんとカタチにしてくれる人がいるから、売り場まで届けることができているんです」

漁業の現場、商品生産の部署、そして売り場の状況。大手企業だからこその大きなマーケットの中で、多様な経験を積んだ竹下さん。天洋丸のアイデアを組み合わせる力、時代を読む力は、裏打ちされた経験によるものなのだと納得である。

雲仙・南串山町にUターンし、就漁

大学を卒業後、同じ東京水産大学に通っていた奥さんと学園祭で再会し、29歳で結婚。竹下さんとは専攻が異なり、生物学に詳しいそう。

竹下さんが地元・南串山町にUターンしてきたのは、就職から11年が経った36歳になる年だった。

元々は地元に帰るつもりではなかったため、竹下さんが戻ってきた時には、父も事業もフェードアウト状態。修理にお金を費やすこともなく、機械もあとどのくらい保つか分からない。なぜそんな状況でUターンしてきたのだろうか。

竹下「親にではなく、妻によく『田舎に帰って漁業をやりたい』って話していたみたいなんです。自分でもそこまで意識していなくて、別にいつ帰りたいのか考えがあったわけでもなくて。でも、『いつ帰るの?』ってよく聞かれてたし、娘が小学校に上がる前には環境を落ち着かせたいと思っていたので、そのタイミングで戻ることを決めました」

そうして、父から天洋丸を受け継いだ。徐々に事業を軌道に乗せていき、2015年には天洋丸を株式会社化。

夫婦揃って水産の知識があるだけでなく、漁業現場で働く地元の仲間、多彩なジャンルで活躍する高校や大学の同期・先輩・後輩にも恵まれている竹下さん。「このことだったらあの人に聞こう」と、パッと顔が浮かぶそう。

一流の企業で積み上げた経験と、世界を広げていったからこそ得られた繋がりすらも、自身の糧として天洋丸のエンジンに変えていく。雲仙市の南串山町から、今後どのようなニュースが生まれていくのか。竹下さんの舵取りにこれからも注目だ。