神社の在り方、地域に根ざす価値を継承する。『富松神社 久田松珍彦さん』

取材

  • 日々研究所

    日々研究所

写真

大村市三城町、大村駅から徒歩12分ほどの場所にたたずむ富松神社。
1300年代から大村の地に鎮座し、古くから「とんまつさん」の名で親しまれてきたこの由緒正しき神社が、今まさに世代交代の時を迎えている。

家業でありながら、700年以上の歴史を持つ神社を“継承する”という重み。
そこには、自分の運命と向き合い続けたたくさんの葛藤や想いがあった。

久田松珍彦さんは地域に根ざす神社にどのような在り方を見出したのか。
彼の半生を辿りながら、来年度に迫る富松神社の新たな歴史の一ページを探っていこう。

幼少期:神社での原体験

昭和57年、歴史ある富松神社を継ぐ家系に生まれた久田松珍彦(くだまつ うづひこ)さん。
周囲と比べて特殊ともいえる環境で育った幼少期はどのような子どもだったのでしょうか?

「当時は自分のことをそう捉えてはいなかったですが、今振り返るとお坊ちゃまのように甘やかされて育っていたのかなという印象があります。それと同時に、家が神社という特殊な環境だったので、子どもながらにストレスたくさん抱えていたかな。」

幼い時に神社で過ごした時間にはたくさんの思い出があるそうです。

「神社で遊んだ記憶はすごくありますね。今みたいに人がたくさん来る神社ではなかったので、落ち葉を集めて燃やしたりとか虫や植物に触れ合ったりとか、原体験としてはいい環境だったなと思います。なかでも落ち葉を燃やして焼き芋を食べていたのはとても楽しくて、今でも印象深い思い出として残っています。」

中高生:周囲のプレッシャーと“決められた道”に対する葛藤

小さいときから活発でのびのび過ごしてきた珍彦さんでしたが、中学生頃になると自我が芽生えると共に、自分の将来についても考えるようになりました。
事業承継する者として、特にプレッシャーを感じるようになったのもこの頃からだと振り返ります。

「中学生に上がってもやっぱり勉強はそんなに好きじゃなくて、小さい頃と同様に体を動かす方が好きでしたね。当時はあまり情報がなかったので、とにかく新しい情報が欲しいってことだけは人より執着していて、雑誌の立ち読みをよくしていました。」

「自分のやりたいことがやれるというよりも、将来は決められたことをやらなくてはいけないという世襲制があったので、周りの大人たちからプレッシャーある言葉をかけられることも多かったですね。自分には選択肢がないんだなと悲しい想いを持ちながら、反面で周りからはお坊ちゃま扱いを受けるような、そんな複雑な両局面を抱きながら成長して行きました。」

大学時代:折り合いをつけた進路選択、そして人生を動かす飲食業との出会い

世に言う反抗期をきちんと過ごしたと振り返る珍彦さん。
その裏の想いにはどのようなものがあったのでしょうか?

「家業が嫌だったというよりは、やはり“決められている”ということ自体に納得いかなかったですね。特に大学の進路を選ぶときに、いよいよ選択肢がないんだなと感じました。例えば勉強ができて大学に進めたとしても、その結果は自分が望んだものではなくて、周りが望むためのものである。周りに褒められたとしても、それは自分がやりたいことを認めてくれているわけじゃなくて、周りに都合の良い結果だから褒められる。そのギャップに腹立たしささえ感じていましたね。」

「元々美容師になりたくて。親に隠れて専門学校の体験入学に行ったりしてたんです。(笑) それからまた興味が変わって、美術とかインテリアとかそういう方向に自分の興味が向くようになりました。」

珍彦さんが自分の将来に葛藤を持ち始めたきっかけは、興味が家業以外のことに向いていると気づきはじめたからなのでしょう。
しかし、大学選択は、世襲制と自分の興味の狭間でどっちつかずの進路を選んだそうです。

「結局は神主の資格を取るために神道学科のある進路を選ぶことにしました。ただ、反抗心として、限られたなかでも自分が行ってみたいと思える東京の國學院大學に進学しました。学科選択も自由だったので、哲学科の美学コースを選択して、神主の資格を取りながらも、可能な限り自分が少しでも興味のある選択を取りましたね。」

周りからのプレッシャーと自分の興味に折り合いをつけて始まった大学生活。
どのような時間をすごされたのでしょうか?

「資格を取ったらそのあとは好きなことをしていいという親との約束の元で上京したので、きちんと資格を取ろうというモチベーションで毎日通学していましたね。「すぐ帰ってくる」なんてことは当然言いませんでした。あわよくば東京で一旗あげて、ここまでやれば帰ってこいと言えないだろうくらいの成功を掴みたいと意気込んでました。(笑) 」

そんな想いを抱えながら過ごした大学生の時、その後15年間もの間熱中することになる飲食業との出会いが珍彦さんに訪れます。

「バイトを通して飲食業と出会いました。当時はただの飲食業というよりも、カフェブームから一つのカルチャーみたいなものが生まれていた時代でした。世の中の注目が集まっている瞬間を目の当たりにしたのが衝撃的で、すごく面白いなと感じました。」

飲食業との出会い:自分が作る空間で広がる多文化共生の面白さ

時代の流れと面白い人が集まる飲食業の魅力にひかれ、珍彦さんは大学卒業後10年間、日本料理やクラブなど、お店を回りながらどっぷりと飲食業界に携わることになります。

「なんでそこまで飲食業界にいたのかと問われると、そこにいる人が面白かったからですね。特に自分の中に響いていたのが、東京という特殊な場所だからこそ得られた多様性、刺激ですかね。例えば、ゲイの人だったり女装している人だったり、全身に刺青が入っている人だったり。長崎ではなかなか出会えない人と繋がれる。そんな誰でも受け入れられるっていう飲食の“土壌”に魅力を感じていたんだと思います。」

自分の未来に閉塞感を感じていた珍彦さんだからこそ、多文化共生が実現している東京を面白いと感じ、世界が広がっていく感覚を誰より面白いと感じられたのかもしれません。

その後、10年の飲食業界の経験を経て、店舗の空間をデザインする会社に転身することになります。
その背景にはどんなきっかけがあったのでしょうか?

「一回は東京でお店をやってみたいという想いがずっとあって。10年間で飲食の内側はある程度見ることができたから次は外側って考えたときに、インテリアの会社に入りたいと思いました。中から外から全部やって、長崎には帰らず自分の手掛けたお店を持ちたいと意気込んでいましたね。」

内装とインテリアの仕事に5年間従事するなかで、お店のプロデュースを一から任されるという印象深い仕事があったそうです。

「ものすごくギャップがあることがやりたくて。お店が鎌倉のなかでも観光客が立ち寄らないひっそりとした場所にあったこともあって、コンセプトを尖らせることにしました。内装はインダストリアル系にして、割と男っぽいごつごつした質感でありながらおでんを出す。インテリアで尖ったことをやりながら、おでんは京風のものを開発したりしてました。」

長崎へUターン:自分の夢を叶えるなかで見出した「神社」の在り方とやりがい

空間から料理まで飲食店の全てを手掛けるという、「自分の店を持つ」夢を半ば叶えはじめた珍彦さんでしたが、結果的にこの経験が長崎に帰るターニングポイントに繋がっていきました。

「最終的には、おでん屋さんも神主も変わらないなと思ったんです。町にポツンとできたおでん屋さんに、100m、200m近辺の人がどんどん集まって地域のハブになって、昼間持つ顔問わず一緒に楽しくお酒を飲む。これって飲食の醍醐味ですごく面白い部分だなと思っていたんです。だけどよく考えてみたら、神社っていうものも地域のハブっていう意味においてはより広いハブになれるんじゃないかなって。そう考えたら飲食店と神社のあり方ってあんまり変らないのかな。そこにやりがいを見出せるんじゃないかな。あ、帰ってみてもいいのかもな。って思いました。」

地元長崎を離れて重ねた時間、そして経験があったからこそ、「この面白さを地元でも感じられるのではないか」という想いが芽生えるようになったと語ります。

36歳で再び長崎の地を踏み、実際に事業承継に向けて動き出したなかでどのようなことを感じていたのでしょうか。

「研修や勉強で神道について覚えることがとにかく膨大でしたね。やっぱり帰ってきて理想と現実のギャップはすごく感じました。お店をやっている時は全部が自分判断だったけど、神社に関しては父親や先輩方にその権限があって。もっとこうすればとか、何でこの時代にそんなことやってるんだろ。って思ってもすぐには解決できない、目の前にある課題に対するもどかしさは感じていました。」

ギャップを感じながらも神道と向き合っていくなかで、神道の面白さを自分なりに再定義していったそうです。

「神道っていうのは宗教じゃなくて、日本人がずっと続けてきた癖のような、習慣のようなものだと思っています。日本人の曖昧さというか、ふわっとした概念の入れ物の呼び方のような…。そのふわふわしたものをどう自分のなかで解釈して言葉に変換して、どのように面白さを伝えていくかということにはすごく面白さを感じますね。」

さらに、神主として生活していくなかで、神社の役割は善意を再分配することだと考え、集まってくる善意ををどう地域に再分配して循環させていくか大切だというポリシーにたどり着いた珍彦さん。
その思考性が生まれたきっかけは、地域の人の善意に触れたことだといいます。

「神社で焼き鳥を皆さんに売ることがあるんですけど、1本100円、5本で200円、10本で300円なんですよ。(笑) なんでこんなことができるかというと、ボランティアの方が地域の子どもたちに自分たちのポケットのなかにあるお金で焼き鳥をいっぱい食べて欲しいからで。こういう一般的には資本主義の世界で見ると破綻しているけど、でもみんなの気持ちがあるから回っていく。そんな様子を見て、善意の再分配を意識するようになりましたね。」

子どもの頃に落ち葉で焼き芋をしたときの記憶とも重なり、循環させることでさらにものごとに意義が生まれる感覚を大切にしているそうです。

「自分が1つやった行為が次の役にも立ってないともったいないなと思ってしまうんです。例えば毎朝境内をきれいにするために集めている落ち葉も、ただそのまま燃やしてしまうより、燃やした灰を土作りに使って野菜ができて、その野菜を神様にお供えしてみんなで食べる。そんな循環ができたら毎朝やっている“掃除”という行為でさえ、もっと豊かなことに感じられると思うんですよ。」

事業承継を前にして:自分の興味を織り交ぜて神社を地域の誇りとなる場所に

家業を継ぐことへの葛藤、上京して得た経験。
事業承継が目の前まで迫るなかでさまざまな想いを重ねてきた珍彦さんに、これからの富松神社でやっていきたいことをお聞きしました。

「現代アートがすごく好きなので、神社と現代アートのコラボレーションだったり、空く予定の家を若い作家さんのレジデンスとして利用したいと考えています。神社の中でインスピレーションを受けて作品を作ってもらえたらいいな。自然の美しさを表現した現代アートがあったら嬉しいですね。」

「そのほかにも、神社や神道を通して、あまり知られていない日本の文化に触れてもらえたらいいなと思います。日本人ってこういうこと考えながら生活してきたんだとか、昔の人の考え方って面白いなとか、日本のルーツを知ることで日本人としての誇りを感じて、自分のことも好きになっていけるような。神社におけるそんな機能の一面も活かしていきたいと考えています。」

最後に、珍彦さんは事業承継に向けて、富松神社が“地域の誇り”となるような場所にしたいと想いを語ってくださいました。

「鎌倉に住んでいた時に、神社での盆踊りを地域の人が生バンドで演奏する様子を見て、地域の人と神社とかお寺の距離の近さを感じていました。一方で、地元に帰ってくると、本来長い歴史があって価値がある場所なのに「大村なんて」という言葉をよく聞くんです。だから、神社を通して、地域に住む人が大村という場所に誇りを持てるようになったらいいなと思います。」

事業承継とは、単なる地位の交代ではなく、事業の価値を次世代に繋げていくこと。

自分自身が一度地元や家業から距離置いたからこそ、珍彦さんは自分のなかで神社を継承していくことの本当の意味を見出したのかもしれません。

日本人にとって神道とは。
地域に向けた“神社の在り方”の再定義を。

そんな想いが繋がり世代交代の一ページを開く富松神社は、どのようにして大村という地に付加価値を与えていくのか。

さまざまな葛藤や経験を経てきた珍彦さんだからこそ起こせる、神社の常識を超えたこれからの挑戦に注目です。

富松神社ホームページ

久田松珍彦

久田松珍彦(富松神社 )

1982年生まれ。國學院大學で神主資格を取得後、東京で飲食業や店舗デザインに携わり、多文化が交わる“場づくり”の面白さを学ぶ。約15年の東京生活を経て36歳でUターンし、神道のもつ「善意の循環」や「地域のハブとしての神社の役割」を再定義。現在は、現代アートとの融合や文化継承を通じて、神社を地域の誇りとする新たな形を模索している。