東彼杵町でオーガニックにこだわった料理を提供する海月(くらげ)食堂。運営をするのは、ふたりの女性であり、子どもを育てるお母さんだ。自らの視点を軸に、健康的なライフスタイルを送る上での環境改善を発信し、SDGsにも力を入れている。そのうちのひとり、黒澤希望さんは『マクロビオティック』や『ビーガン』の観点を取り入れ、オーガニック野菜を使用した料理やお菓子の考案と調理を担当。横浜で生まれ育ってきて、田舎暮らしとは無縁の生活を送ってきた彼女が、東彼杵を知り、移住するまでに至った経緯を伺った。
震災の長いトンネルを抜けると、そこは東彼杵の町だった。
神奈川県横浜市に生まれ、これまで何不自由ない都会の環境の元で育ってきた。もちろん、長崎県には縁もゆかりもない。当たり前に便利さを享受していたが、ヒトやモノに溢れた暮らしよりも、環境や健康にも配慮した自分らしい暮らしというものも自然と求めていた。
黒澤「地元はわりと都会だったのですが、これまでその枠の中から出たことがなかったんです。大学は東京だったんですが、結婚してからも専業主婦として再び実家の近くで暮らしていました。学生時代から、よく好きで遊びに行っていたのは山や海のある葉山や鎌倉。その辺のエリアって、今でいうところの”サステナブルな生活”を送っている大人が集まっていて、私は20歳前半ぐらいから彼らの生活を見ていました。『ビーチクリーン』といった自然を守る活動も、その時からすでに当たり前のこととしてやっていましたし。素敵な営みをしているお店も多く、こういう暮らしもあるんだなと思っていて」
そんな生活が一変したのは、2011年に起こった東日本大震災だった。関東地方にもその影響は及び、交通機能の麻痺や計画停電、物資の不足など未曾有の出来事に人々は様々な不安に駆られた。そして、人災とも呼べる福島第一原発の事故による放射能漏れが追い討ちをかける。関東圏でもホットスポット呼ばれる低線被爆が露見し、当時は各地方へと避難を余儀なくされた人や、移住を決意した人は数多くいた。
黒澤「私には子どもが二人いるんですが、二番めの子が生まれた時からマルチアレルギーがあり、たまごや乳製品といった食材がまるでダメなんです。アトピーも酷く、それがきっかけで食生活や環境について考えるようになっていたんですが、3.11の震災を経験したことで、子どもへの影響を考えて不安な毎日を過ごしていました。そんな時、葉山や鎌倉での自然と生き方を大切にする暮らしを思い出し、放射能の及ばない地方への移住を考えるようになりました」
3.11を機に地方移住への気持ちが芽生える中で、とあるイベントがきっかけで東彼杵という町と出会うことになる。『東彼杵の夏休み』という、2011年から始まった”集団疎開”プロジェクトだ。子どもを放射能から守るという想いで立ち上がった当企画に東彼杵町も手を挙げ、人々を受け入れた。
黒澤「震災後、いろいろと気にして各地の保養場所を探していた時に、友人から集団疎開の活動しているイベントが長崎県の東彼杵町でやっていると紹介されました。2011年8月に行われた、東彼杵の夏休みという企画です。放射能による低線被曝を気にしたお母さんと、その子どもたちとが集まって約1ヶ月間東彼杵町で生活をするというイベントだったんですが、それが初めての東彼杵町との接点になりました。すぐに電話して参加を伝え、シェアハウスしながら生活をし。そこから、空家バンクで家を探して決めて。すべてがトントン拍子で話が進み、翌年2012年の春からは移住し始めました」
参加する側から、起こす側へ。
料理を通して、自分を表現する
東彼杵町での初めての田舎暮らし。それは、当たり前に都会で暮らしてきた人にとってはカルチャーショックの連続だろう。多かれ少なかれ、慣れるまでに四苦八苦することは目に見えている。田舎に憧れている人でも、理想と現実の違いを思い知らされて挫折して戻っていく人も多い。そんな中、黒澤さんは生活を営むだけでなく、自分でも何か行動を起こそうと考えるようになった。
黒澤「こっちに来てからもいろんなイベントがあり、私はそれまで参加する側だったんですが、自分やアレルギーの子どもも美味しく食べられるような手作りのお菓子を作って出してみようと思いました。これまでの食生活も、乳製品や卵を取り入れていなかったので、そこから『マクロビオティック』や『ビーガン』を独学で勉強して。その考えが軸となって、海月食堂を始めた時からお肉や魚、卵、乳製品は使はないビーガン料理も提供するようになったんです。自分のやってきたことが、全部今に繋がっているように感じます」
「料理に関しては、わりと子供の頃から好きだったんですが、飲食店をやろうとまでは思っていませんでした(笑)」。そう話す彼女が、東彼杵に住むことでオーガニックを取り入れた食と出会い、環境や健康の観点から自分でも料理を作ることに楽しさを見出していった。
黒澤「初めは、川棚町の民宿で畑をしたり、料理やアイスクリームの販売のお手伝いをやっていて、自分の中で『やってみたい』と思ったのがきっかけです。そこから、当時東彼杵町で活動していたNPO法人の方から、『お弁当を作ってみないか』と声がかかった時に、オーガニックの野菜を使えるというのと、企画のコンセプトに惹かれて受けました」
自分の考えた料理が作りたい思いで参加し、そこから本格的に人に料理を出すというプロフェッショナルを目指すようになった。料理学校などで勉強や修行をしてきたわけではない。だから、全てを”実践”で学んできた。
黒澤「ですから、周りの人たちに育ててもらいながらやってきたという感じです。その時の季節に合わせた野菜を使ってどう料理をするかは、常に考えています。シンプルに手を加えて自然のものを美味しく身体に摂り入れられるように。また、食べることが魅力的であるように、作ることも魅力的です。私たちも、オーガニックで夏野菜の畑をやっていたり、仲間が作ったものもありがたく使わせてもらったりして。自然に続けられるペースで、これからも料理を作ってみなさんに食べていただきたいですね」
東彼杵へ来て10年。
今度は、東彼杵から考える
東彼杵へ移り住んで、10年という大台に乗った。この町だったからこそ、これまで生活を続けてこられたという思いがある。
黒澤「この町の方々は、本当に優しいと思います。今でこそ移住されてきた方は数多くいますが、私がこの地へきた当時は全然そんな感じではありませんでした。それでも、周りの農家さんがいつも気にかけてくれていて、お米や野菜を持ってきてくれたり。そこからの繋がりで、東彼杵のお父さん、お母さんと呼べる人がたくさんできました。そういうことって、都会ではなかったんですよ。横浜で生まれ育った私にとっては、別世界のようです。郷愁というか、昔話みたいな世界が本当にあったんだって、今でも思いますね。ここで生活しなければわからなかった体験ができました」
今となっては、東彼杵町が自分のホームになった。そして、今後は自分の地元も活用しつつどのようなライフスタイルを形成していくかが課題だという。
黒澤「こっちに戻ってくると、『帰ってきたな』と思います。落ち着くし、一番しっくりくるんですよ(笑)。横浜の実家に帰ってもそれは思うんですが、ずっといるのはしんどくなって来ます。身体が、東彼杵町の時間のリズムで作られているし、子どもたちもこっちの生活が長く、馴染んでいます。ですが、子どもが大きくなってくると、進学や進路の面では都会の方が良いのかな、もっと広い世界を見て欲しいなとも思います。なので、2拠点生活に憧れています。両親も歳を重ねて来て、将来的な心配も頭に浮かんでくることが増えました。私にとっては両方ともHOME!なので、もう少し頻繁に行き来できたらな。とも思うようになりました。田舎と都会のいいとこ取りをできたらいいなという感じです。」
これからも、この地で子どもを育てながら、海月食堂という場所で食について、環境について、発信していく。自分らしく、自分なりのペースで。一歩一歩、着実に。今後の海月食堂の動向にも、目が離せない。
ひと・みせについての詳細は以下の記事をご覧ください。