そのぎ茶の栽培、製茶、販売までを一貫して手掛ける『有限会社 茶友』。そこで園主を務める松尾政敏(まつおまさとし)さんは、静岡にある日本茶の研究機関で茶業を学んだのち、35歳でお父様が長年にわたり続けてきたお茶づくりを引き継ぎ会社を設立しました。
より美味しく、より新しいそのぎ茶を研究し続けている政敏さん。その功績は広く認められ2010年に天皇杯を受賞するなど数々の大きな賞を受賞しています。
また、たくさんの人にそのぎ茶へ親しみを持ってもらおうとお茶会や展示会を積極的に開催。日本国内に留まらずドイツやオーストラリアなど海外へも日本茶の魅力を届けています。
お茶と青春と
東彼杵町一ツ石郷で生まれ育った政敏さん。子供の頃の思い出といえば、とにかく学校へ通うのが大変だったことが強く印象に残っているそう。千綿にある小学校や中学校までは片道7キロ。当時はまだ道路が整備されておらず獣道のような通学路で、冬の時期にはまだ夜が明けていない真っ暗闇の中、でこぼこ道をひたすら歩いていたとか。
高校は長崎県立諫早農業高等学校へと進学。勉学のかたわら、音楽好きが高じてアマチュアバンドの活動にも勤しんだそう。やがて高校を卒業後は家業を手伝うため、静岡にある国立野菜・茶業試験場で2年間お茶づくりの研修を受けました。
政敏「お茶の道へ一歩進んだのは、父親がずっとお茶をつくっていたから自分もやるのかなって感じで、難しく考えませんでした。静岡の試験場は全寮制で1学年20人。みんなで同じ釜の飯を食って寝起きを共にする生活を送りました。そこで初めて真剣にお茶と向き合いましたね」
昼間は研修を受けながら、夜はお茶工場でのアルバイトへひたすらに打ち込んだ政敏さん。アルバイトを始めたのは、当時通っていた金谷町の剣道クラブで出会ったお茶農家さんから「足を怪我して困っているから手伝ってくれないか」と誘いを受けたことがきっかけでした。
政敏「工場のことやお茶摘みもできないからってことで、同級生と一緒に手伝いました。松葉杖をつく農家さんから細かくアドバイスを受けながら、茶葉の刈り取りから製造まで全部やりましたよ」
こうして加工し出来上がったお茶は翌朝、政敏さんも一緒にお茶屋さんへと持ち込み取引を行いました。お茶屋さんは茶葉を吟味した後、出来上がったお茶の良いところや悪いところ、どういった部分で価値を決めるのかなどじっくりと教えてくれたそう。
政敏「様々なやり取りをするうちに、お茶って結構儲かるんだなって思ったり…当時はお茶バブルでつくれば売れた時代でしたから、まだ良かったんですよね。だけどそこからどんどんお茶の面白さに目覚めていきました」
試験場で過ごした2年間は、政敏さんにとってかけがえのない経験となっています。当時を共に過ごした仲間とは、卒業して30年ほどたった現在でも頻繁に連絡を取り合い、定期的に研修も行っているとか。
政敏「当時は仲間とお茶や将来のことなどを毎晩のように語り合う生活で。お金を出し合って飲み物や食べ物を買ってワイワイと(笑)。そんな時間を過ごした仲間とは今もすごく仲が良いんですよ。みんな全国で素晴らしいお茶づくりをやっていて、『今年1番出来が良いものをそれぞれ持ち寄って評価し合おう』ってルールを設けて毎年1回集まっています。それが本当に楽しみで。近年ではそのお茶を飲むと、それぞれの進歩したところや考え方に至るまで分かるようになってきましたね。それに『お茶の見本を見てくれない?』とか『お茶の調子はどう?』なんて連絡もしょっちゅうです」
『有限会社 茶友』設立へ
20歳で研修を終えた後は、父親の三千男さんの身体が心配ということもあり家業を手伝うことにした政敏さん。今までとは全く勝手の違う生活に戸惑う日々でしたが、次第に松尾家のお茶づくりへと馴染んでいきました。
そして2004年、政敏さんが35歳の時に茶園を引き継ぎ『有限会社 茶友』を設立。時代の変化を見て、今まで通りの経営では限界があるかもしれないと判断してのことでした。
政敏「親父がやってきた農業の形態が悪いということではなく、この先もより美味しいお茶をつくり続けるために会社としての形をきちんと作っておこうと。というのも茶園の拡大や設備投資などの経営のこともあるし、天候だけでなく社会情勢も売上に響いてくる。そして雇用を起こし社会に貢献するという意味でも。当時は有限会社を作れたので、規模としてもそれで充分だろうということで会社を興しました。当初は何もわからず右往左往しましたが、それでも支えてくれる方がいて。サポートしてくださる方がいるおかげで今に至っています」
茶友を立ち上げて数年後、政敏さんが手掛けたお茶はその味わいの素晴らしさによって2008年から計4回の農林水産大臣賞、2010年に天皇杯、2014年から開催されている日本茶アワードでは最高賞にあたる日本茶大賞を2回受賞するなどの実績を上げています。
天皇杯とは、年間に520件授与される農林水産大臣賞のなかで特に優秀な3件のうちの最高賞を指します。茶友が評価された点は、海と山がある東彼杵町に根ざした新たな品種をいち早く導入し独自の生産体制を構築したことと、自分たちで生産したものを自分たちの手で消費者の元へ届けていることでした。
政敏「天皇杯は僕が41歳の時に受賞しました。当時設けられていた7部門のうち蚕糸・地域特産部門での受賞です。天皇杯を拝受した人はみんな皇居で天皇皇后両陛下に受賞の経緯をご説明する機会があり、その際にご拝謁を賜りました。40代での受賞はかなり珍しいようで、美智子さまからは一番最初に『お若いのに素晴らしいですね』ってお声がけいただいて。人生のご褒美にいただいた賞ですよ」
そのぎ茶をつくり続けること
父親から事業を継承し、会社を設立して初めて見えてきた景色がありました。
政敏「実は後継ぎっていうのは楽だと思ってたんです。親がやってきたことを続けていけば良い、新しいものを一からつくることは無いからって。だけどそれは全然違いました。実際にやっていくなかで時代は変わっていくし、想定していたよりもお茶をつくり続けるのは大変ですよ」
時代の潮流がスピードを上げて変わるなかで、お茶づくりを続けるにはどうしたら良いのか。政敏さんは考えています。
政敏「これからどんどん変わっていくんでしょうけど…私たちは美味しいお茶を届けるために地元である東彼杵の自然や人の恵みに感謝し、寄り添っていかなければなりません。そして産地をもっと豊かにするためには、既存の慣習や概念だけではない外への取り組みが必要だと思います。茶友の一番の課題は後継者ですね。特にうちは子供がいないので真剣に考えていて…たたむのはわけないですけど、ここまで頑張ってきたからという思いもあります。基盤はあるので、これから先も世の中にどんな形で貢献できるかずっと考えていますね」
最後に、東彼杵町に対する思いもお話いただきました。
政敏「町おこしを頑張っている人がいて、東彼杵へ移住している人も多いから、そこはすごく魅力だと思います。そしてもっとこの町で起業する方が増えたらとも思うんだけど…ただ東彼杵町に縛られ過ぎずにもっと広域な視点で考えていければ良いですよね。そしてそのぎ茶。今は知名度も広がりつつあり、真面目にやれば販路も広がっていくはずなのでその先をどうするか。新たな発想を生み出す人が出てきてくれたらもっと多方向にビジネスが生まれていくし、そのぎ茶も広がっていくと思うんです。そのぎ茶が賞を取って注目を集めてはいますが、そうじゃなくてもモノが売れて循環していく流れを構築していかないと。全国的にお茶の作り手が減り続けている現実があります。このままだと産地としては生き残っていけないですよね。これからですよ、これから」
会社を立ち上げてもうすぐ20年。政敏さんは今日もその並々ならぬ情熱でそのぎ茶を生み出し、その魅力的な味わいをたくさんの人へ届け続けています。
みせについての詳細は以下の記事をご覧ください。
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