「自然は心と身体を癒す力を秘めた、天からの贈り物」。長崎県大村市『SSC・篠原メディカルスキンケアセンター』代表・篠原光沙実さん

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長崎県大村市に本拠を構える有限会社SSC(篠原メディカルスキンケアセンター)代表の篠原光沙実さん。これまで長崎大学病院薬剤部に所属し、産婦人科の病棟薬剤師として勤務した。その後、漢方薬局で漢方や民間療法、食事療法に触れ、自然療法に含まれる中国医学、薬膳、アロマテラピーについて学んできた。皮膚科クリニックに併設した、スキンケアをベースに未病対策からアフターケアまで一貫してサポートできる施設を構築し、「ないものは、自分で作る」と自らが考案したスキンケアクリームを開発・製造までしている。

また、手作りの石鹸の魅力に惹かれ、独自に作ってはその過程を多くの人に広め、共有したいという想いもある。そのお話については、こちらの記事を見ていただきたい。

さて、これだけのことを聞くと「なんてすごい薬剤師なんだ」と勝手に身構えてしまう。しかし、実際に会ってみた篠原さんにそんな素振りは一切ない。

篠原「私は、これまで患者さんから多くのことを教わってきました。そこにある関係性は、上下ではなく常に対等なんです。患者さんの痛みや苦しみに、私も一緒に寄り添って伴走したい。そこに、学びがある。私は、これからも学び続けていきたいのです」

ますます、興味が湧く。なぜ、そういう気持ちに至ったのか。彼女の半生を振り返りつつ、その想いの原点について探ってみた。

恩師に恵まれた学生時代。
縁を大事に、想いを胸に

長崎県佐世保市出身。佐世保北高校を卒業し、福岡の薬科大学へ進学するまでは佐世保の地で暮らした。幼い頃から恩師に恵まれ、その縁を大事にしてきた。

「小学生の頃の担任だった先生と交流を続け、ピアノや絵画など色々なことを教わりました。また、高校時代は薬剤師になりたいという私の意志を快く相談を受けいれ、当時珍しかった大学の特別推薦をしてくれた先生もいます。『学力も当然だけど、女子は明るく、楽しくが一番だ。薬剤師はお前に向いている』とおっしゃってくれて、その言葉が今も励みになっています。本当に恩師に恵まれていたと思います

薬剤師という夢は、病院に勤めていた父の影響が大きかった。

「父が放射線技師として病院で働いていて、その背中を見て医療関係に進みたいと小さい頃から思っていました。とにかく、病院の中で働きたい。病院の中で働くなら、どんな職業が良いだろうか。父の働く病院に通い、働いている人の姿を見る中で薬剤師が良いなと思いました」

大学在学中、いずれは長崎県内の父の働く病院に勤務するつもりで勉学に励んだが、想いは遂げられなかった。葛藤を抱いたまま、福岡県の総合病院での勤務が決まる。しかし……。

「私の見通しの甘さがあって、勤務した病院に入ってみてはじめて”病棟薬剤師”という職業に対して自分の思い描いているイメージとは異なっていることがわかりました。薬剤師として医学・薬学でもっと学びたいことがたくさんあることに気づきました」

合わないと分かり次第、辞職を決めた。そして、教授に電話で相談すると思いがけないことが起こった。

「教授から長崎の大学病院に欠員が出たので面接に行ってみたらどうかと言われました。電話したその日にアポをとり、面接を受けに長崎まで行くとそのまま雇ってもらえることになったのです」

あっという間の内定と、移住。気がつくと、長崎大学医学部付属病院の薬剤部に就職していた。友人や知り合いもいない、突然の長崎ひとり暮らし。「本当に長崎に、私はやって来たんだ」。寂しい思いもする中で、ひとり考えていた。

「福岡県から出ないと思っていましたが、ある日突然地元長崎県の長大薬剤部にいる自分がいました。その時、私は縁あってここで何かやれることがあるのかなと。きっと、この縁には意味がある。これから始まるというターニングポイントとして捉えました」

病棟薬剤師として、自分にできること。
モルヒネによる疼痛コントロール

長大薬剤部では日々仕事に追われ、夜遅く帰ると冷蔵庫にはスイカしかなくそれを食べながら寝落ちしてしまうこともあった。

「みなさん、とてもクレバーな人ばかりなので頑張っても追いつかない。なので、自分なりにここに来た理由を探しました。ここで、自分は何ができるだろうか。そこで、17時の勤務終わりに患者さんと話すようにしました。抗がん剤の辛さや家族に対する思いとか、そういうのを聞いていくうちに私に何かできることがあるかもしれないと。痛みの治療をやりたいと看護師さんに相談すると、賛同するドクターを増やし、チームを作らないと痛みの治療はできないと言われました」

そこで、まずはドクターに顔を覚えてもらうこと、そして産婦人科のカルテをひとつずつ読んで内容を知ることから始めた。まさに、ゼロからのスタートだった。当時、鎮痛薬のモルヒネの使用はほとんどなく。モルヒネはネガティブなものだとメディアが発信していたこともあり、患者さんからはちゃんとした説明が求められた。

「モルヒネによる痛み緩和のケアは、むしろマイナスからのスタートで、メソッドもない模索からの始まりです。大阪の淀川キリスト教病院にあるホスピスが治療の最先端をやっており、そのプロトコール(治療計画)を作り、モルヒネによる癌の疼痛コントロールを立ち上げました。その頃には、先生達に顔を覚えてもらい、相談をする機会も増えてきて。そして、私が会いたかった先生を呼び、医師会館でモルヒネの使い方などを先生方に周知するような勉強会を行ってもらいました。それができたのが、すごく嬉しくて。病院に勤め始めて2年ほど経った頃です」

化学療法から自然療法まで。
患者さんの痛みや悩みと向き合ってきた

3年の勤務満了の後、結婚を機に薬局へと就職し、漢方・食事療法・民間療法を主体とした自然療法を学ぶこととなる。

「主人が諫早の病院に移るタイミングで諫早市へ行きました。結婚したら少しゆっくりしたいということもあって漢方薬局で働き始めたのですが、びっくりするような忙しさで(笑)。そこは、薬局製剤はもちろん、漢方に加えて独自の食事療法や自然療法を行っていたのですが、癌で病院でも治療が無理だと言われた人が来て完治するのを目の当たりにし、自然療法に興味を持ちました。現場で学ばせていただき、積み上げてきたものに感動し。そこから漢方を学ぶ自分の意識が芽生えました」

昔から、身体が弱かったということもある。

「慢性の副鼻腔炎や、病名のつかないような膠原病体質と言われています。疲れやすく、風邪を引きやすかったり、熱が出やすかったり。さらに、6年ほど前にわかったのは心臓の弁が外れていたということ。自分の身体の不調の理由がわかってきましたが、それまでは痛みに対する思いや、※不定愁訴として片付けられることと自分は戦ってきた。そういう意味で、漢方薬局との出会いで一人ひとりが抱える病気と向き合うことに、さらに意味を抱くようになりました。特に、これまで癌の患者さんたちと接してきたということもあって、何かしら自然療法へと導かれていく自分がいました」

※不定愁訴…倦怠感、頭痛、微熱感、不眠など何となく体調が悪い自覚があるものの、検査をしても原因となる病気がわからない状態を指す。

漢方薬局を退職した後、夫の経営する皮膚科クリニックの開院を手伝いつつ、クリニック併設の有限会社SSC(篠原メディカルスキンケアセンター)を設立。スキン ケアをベースにした未病対策からアフターケアまで、一貫してサポートできる施設を構築していった。

現在は、地元長崎の特産品『びわ』を主原料としたオリジナル化粧品を開発、販売を行い、治療からものづくりにまで多岐にわたって活動している。患者さんに寄り添って彼らの痛みや悩みと一緒に向き合い、伴走していく。それが、彼女のモットーだ。彼女を支えている根幹は、恩師たちから教えられた時からいつだって変わらない。

「人は学力ではなく、ひととなりが一番大事です。それがわかってないと、何を学んだとしても自分の中に本当の意味で入ってきません。人と関わっても大事なことに気づけないと思います。だからこそ、そういった人に謙虚に向き合う姿勢をものづくりにも活かしていきたいなと思います。自分が何かしてあげたいというよりも、何かに役立てもらえれば本望です。そして、自分ができることをもっと増やしていきたいですね」

ひと、みせについての詳細は以下のそれぞれの記事をご覧ください。

篠原光沙実