「ここは高速が通っとるけん、名前に『ハイウエイ』と入れるのどうでしょうか?」
『ハイウェイオートボデー』という名前は、つながりのあった、とある建設会社従業員の方の一言で決まったといいます。
一度聞くと、なぜか忘れられない不思議な響き。板金塗装業『ハイウェイオートボデー』は地元のつながりに助けられながら、1992年に産声を上げました。
整備経験者だからこそ選んだ「板金塗装業」
創業者は東彼杵出身の中原 和人さん。新たなことへの挑戦、そして子育てのために、16年勤め上げた整備士の仕事を辞めて、40歳で独立します。
実は、それまで板金塗装の経験がなかったという和人さん。師匠もおらず自己流で腕を磨いたといいます。なぜ整備業ではなく板金塗装業を選択したのでしょうか。
中原(和)「整備よりも今後よかろうと思って。整備の場合はある程度機械が必要なわけさ。それに整備は認証とってさ、ある程度機械もいるわけたい。板金のほうが(経費が)かからんし、(整備の)技術も必要だし。いろんなものバラしたりしてるし、部品の名前も何百種類もある。だからこそ、整備しとかんと板金はできんもんね」
実は前職の上司からは、几帳面な性格的に和人さんに板金は向かないとアドバイスされたそうです。それでも板金塗装業を生業にしたのは、今後の時代の流れ、なにより整備士としての経験を加味しての判断だったといいます。
しかし、当時は板金塗装という仕事をする人自体があまり長崎にいなかった時代。整備業のように技術を教えてくれる学校もない中で、和人さんは創業4ヶ月目に入社した従業員の粒崎さんと二人で、試行錯誤しながらお客様のニーズに合わせたサービスを提供していたそうです。
中原(和)「(当時は)板金があんまりなかったっちゃ。それに板金はどうしてもお金かかるけん、当時はなるべく安くできる方法をとったりね。トラックとか普通の車が入ってきて、高級車は入ってこん。それを粒崎くんと二人で対応しとった」
ハイウェイオートボデーと中原家、そして粒崎さん
ハイウェイオートボデーを語る上で欠かせないのが、創業期を支えた「粒﨑くん」こと粒﨑 道明さんの存在です。創業から30年にわたってハイウェイオートボデー、そして中原さんご家族と人生をともにしてこられました。
中原(妙)「いつも感心する。いつも『ありがとう』って(感謝の気持ちを持っている)」
当時の粒﨑さんも和人さんと同じく板金塗装の経験はなし。独学で技術を学び、ハイウェイオートボデーを支えた功労者です。
中原(和)「(車のことを)全く知らん人間がね、全く知らんことを勉強してここまできたけんね」
そんな粒﨑さんは、和人さんの息子である康尊(やすたか)さんともいいコンビ。粒﨑さんに影響されてリーゼントにしたというほど尊敬しているといいます。
中原(和)「康尊はね、やることなすこと粒﨑くんと一緒のことしてくるもんね。歩き方すら似てるもん」
ハイウェイオートボデーを支え続ける粒﨑さん。その姿に憧れながら、時に反発しながら、良きライバルとして、パートナーとして粒﨑さんを尊敬し続ける康尊さん。ハイウェイオートボデーの歴史、それは中原一家と粒﨑さんの人間史でもあるのかもしれません。
時代とともに変化した「板金塗装業」、変わらない「感謝の気持ち」
創業当初から板金塗装業を中心に事業を展開するハイウェイオートボデーですが、今とは顧客からの要望の内容がかなり違っていたそうです。
中原(妙)「昔は『見かけがパーッと直って安くしてくれたらよかけん』ってお客さんが大抵。でも今は車に対する価値観、捉え方が変わったね。金額に関わらず『完璧』を求めるお客さんが増えたと」
こうした時代の流れの中で、2023年1月に、ハイウェイオートボデーも大きな転換期を迎えることとなります。康尊さん、裕子さん夫妻への事業継承です。
中原(妙)「ベストは1月1日やったけど、塗装ブースが3月にできるから、そこまではしてあげんばねって。ブースは私達からの贈り物」
そんなお二人が、新社長の中原康尊さんと裕子さんに伝えたいこと。それは健康の大切さ、そして周りに対しての感謝と繋がりの大切さでした。
中原(和)「まずは健康。健康第一。あと、お客さんからお金をもらう仕事やけんね。お客さんにできるだけ負担掛けずに。今も川棚から来てくれるお客さんがいるんよ。あっちにも板金屋さんがあるのに。お客さんとつながっていくこと、付き合い。そういうのを大事にしていかんないかんね」
その脇で「みんなでがんばってきたもんね」と漏らした妙子さん。ひたすら真摯に、家族、従業員、そしてお客様を大切にしてきた和人さんと妙子さんの意思は、ハイウェイオートボデーで今後も生きていきます。
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