彼杵宿郷にある板金塗装業『ハイウェイオートボデー』は、2023年1月に創業者である中原 和人さんの手を離れ、二代目社長であり、息子の康尊さんに引き継がれることとなります。
妻の妙子さんとともに、地域の支えを得ながら走り抜けた30年。それはつながりと感謝の気持ちを忘れず、常に経営者目線で周りを引っ張ってきた年月でした。まもなく事業継承というタイミングで、今回中原和人さんと妙子さん夫妻に、これまでの30年、そして息子夫婦に託す未来についてお話を伺いました。
好きを追求し、挑戦し続けた40年
子どもの頃から車が好きだったという和人さん。「車のことがしたい」と中学生の頃から佐世保の職業訓練校で整備を学び、その後名古屋で定時制の高校に通いながらタクシー会社に勤めていたという苦労人でもあります。
中原(和)「中学校時代からさ、(車の)名前を覚えたり。車が好きで、それだけずっとしてきたさ」
その後、名古屋で車の整備士の仕事をしたあと東彼杵に帰ってきた和人さんは妙子さんと結婚。その後、ご縁があった地元の企業で、同じく整備士として働き始めます。
従業員として40歳まで働き続けた和人さんですが、その間大切にしていたのは、常に経営者目線であること。お客様に、また仕事に対する和人さんの真摯な姿勢の表れのように感じます。
そうして16年間整備士として勤め上げたあと、40歳を機に会社を退職。独学で板金を学びながらハイウェイオートボデーを立ち上げました。
中原(和)「ここでずっとしとっていくのかなと思いながらさ、ちょっと物足りんくなったんよね。それで独立したんよ」
中原(妙)「それに教育にはお金がかかるたい。そのためには商売せんばねって」
実は26歳のときに胃がんが見つかり、40歳までは生きられないと宣告されていたという和人さん。40歳を節目とした理由は、ここにもあるのかもしれません。
子は父の背中を見て。
「高速が通っているから」という知人のアイデアから生まれた「ハイウェイオートボデー」。創業からこれまでの30年間は「必死。あっという間だった」と、和人さんと妙子さんは口をそろえます。
一方で、事業だけでなく、PTA活動や地域のイベントごとにも積極的に参加していた和人さん。かつては地元の神社の子どもの相撲取りの行司を35年ほど指導していたそうで、今では当時の「教え子」が子どもを連れてやってくることもあるそう。
不器用な一面もありながら子どもが大好き。そんな和人さんは、自らのことを「人間が小さいし涙もろい」といいます。妙子さんからはこんなエピソードも。
中原(妙)「子どものことを話したら、一人でトイレに行ってさ、そしたらトイレで泣いてたさ。やっぱり自分の子やけんかわいかと」
自分を大きく見せるのではなく、ありのままの自分を受け止める。単純かもしれませんが難しいことをこともなげに話す和人さんと妙子さん。その背中をしっかり見て成長した息子の康尊さんは、周囲への感謝を忘れない、リーダー気質あふれる青年に成長していきます。
康尊さんが発起人の一人である琴の音フェスティバルの開催も、父・和人さんがかつて行っていた地元の夏祭りがきっかけだったそうです。
中原(和)「当時はあんまり楽しいことがなかったの。だから地域活性のために『カラオケ大会したらどうですか』って提案して、機材の準備から舞台のトラックの準備司会まで全部一人でして」
中原(妙)「日本舞踊とかする人もいてね」
中原(和)「夏になると皆さん楽しみにしてくれてたけん。地域の人に喜んでもらったもんね。4年くらい続けたかな」
その後、夏祭りは残念ながら途切れてしまったそうですが、康尊さんはその意志を密かに引き継いでいました。
月日が流れ、音琴小学校が廃校になった際、学校というコミュニティがなくなることに寂しさを感じた康尊さん。「自分がやらねば」という想いで琴の音フェスティバル開催に至ったのだといいます。
今や東彼杵になくてはならない存在となった康尊さん。地域を盛り上げたい、人のためになにかせねばという想いは、父である和人さんから脈々と受け継がれていたのですね。
感謝の気持ちとつながりを大切に
創業以降は苦労も多かったという和人さんと妙子さん。しかし、昔を語る両者からは恨み節は全く聞こえてきません。印象的だったのはむしろ感謝の言葉で溢れていたこと。
中原(妙)「子育てのために独立したけん、(和人さんには)本当にありがたいけんと思ってたよ」
中原(和)「30年の間、大変なことはしょっちゅうやったね。でもやっぱり子どもたちが一人前になって育って結婚してくれて、かわいか孫も生んでくれた。それが一番。あとは何もない」
中原(妙)「周りに恵まれてるとが一番幸せね」
実際に妙子さんは、康尊さんの妻の裕子さんに「感謝とご縁は大事にすること」と常に伝えているといいます。
中原(妙)「何に対しても『ありがとう』ということとご縁を大事にすること。裕子ちゃんには常に言うとる。『ありがとう』っていう感謝の気持ち。それが私の基本よ。それにご縁のある人とは必ずつながる。何事も丸まっていく」
実は和人さんは、毎朝のご飯の際、妙子さんに「今日もご飯ありがとうねえ」と必ず伝えるそうです。お客様にはもちろん、身近な人への感謝も忘れない。中原家の原点がここにありました。
齢70を迎えて
3月28日。事業継承を終えた和人さんは70歳を迎えました。ハイウェイオートボデーで板金塗装業を生業にしてきた半生を振り返り「後悔はない。この仕事をやってきてよかった」と語る和人さん。引退後もその意志は確実に新社長に、そして未来の子どもたちへと引き継がれていく。そんな確信にも似た思いを抱かずにはいられません。
「みせ」の記事につきましては、以下をご覧ください。