おだやかな笑顔がまぶしい、町の整骨院の先生。『東彼杵整骨院 廣瀬真史さん』

取材・写真

東彼杵整骨院』は、東彼杵町蔵本郷にある整骨院。患者一人一人に向き合い、様々なアプローチを組み合わせた独自の療法で痛みを芯から取り除く“根本治療”を行っており、その施術の丁寧さが口コミを中心に評判を呼んでいる。

院長を務めるのは廣瀬真史(ひろせまさし)さん。学生時代に起きたある出来事をきっかけに柔道整復師の道を歩み始めた。真史さんの穏やかで朗らかな人柄は、心身ともにつらさを抱える患者にとって心強い癒しとなっている。

サッカーに明け暮れた青春時代

真史さんは1984年生まれ。転勤が多かった父親の仕事の関係で、幼少期は長崎県内のあちこちへ移動する日々だった。やがて小学校1年生の6月に諫早市内に住まいが落ち着き、諫早市立飯盛東小学校へと転入が決まった。

転機が訪れたのは1993年、真史さんが小学校3年生のこと。当時Jリーグが開幕し日本中がサッカー熱に湧いていた頃である。そんなある日、友人から「サッカー部に入ってよ、一緒にやろうよ」と誘われるままサッカー部へ入部。元々野球が好きな真史さんだったが、数年後にはキャプテンを務めるほど夢中になった。

中学校でもサッカーを続け、ここでも友人たちからキャプテンを任されるほど技術も信頼も得ていた真史さん。2度もキャプテンを務めたことは人生でとても大きな経験だったそうだ。

真史さん(以下真史)「キャプテンをするということは数十人という人数をまとめなきゃいけないし、様々な面で視野も広げないといけないので。当時の経験は今の仕事をしていくなかでも活き続けているとすごく感じますね」

初めて味わった苦い挫折

サッカー強豪校である長崎日本大学高等学校へと進学しすぐにサッカー部へ入部、ハードなトレーニングを重ねる毎日を送った。やがて努力が認められ、1年生ながら部内トップチームの遠征メンバーに選抜されることとなった。

しかし真史さんに悲劇が襲う。1年生の夏、遠征先の熊本での試合中に相手選手と激突し、ハッと気付いた時には倒れて動けない状態に。近くの病院で診察を受けたところ『膝蓋骨粉砕骨折』の診断が下った。

真史「そのまますぐに長崎に帰って、翌日に入院、3日後に手術。なので夏休み中はずっと治療で(笑)。今考えれば知識があるのでちゃんとリハビリすれば早く復帰できたはずやけど、当時は自分がおろそかにしてしまったこともあって、結局は10ヶ月くらいリハビリ生活でした」

長いリハビリ期間のさなかでも、マネージャーの仕事を手伝いながら部活動は続けていた。辞めたいという気持ちは一切湧くことなく、サッカーが大好きだからこそ「1日も早く復帰してプレーしたい」という純粋な思いしかなかった。

次第にボールが蹴れるようになり、重心に体重をのせられるようになり、走れるようになり……とひとつずつ壁を乗り越えるごとに「またプレーできるかも!」と嬉しさや喜びが増していった真史さんに将来への思いが芽生えた。

真史「大ケガをしたことで、ケガのケアをしたりケガをしない身体づくりをサポートできるスポーツトレーナーのような仕事に就きたいと思うようになりましたね。自分が感じたつらさをできるだけ経験させたくない、そういう人たちをできるだけ少なくしたいって思いが生まれました」

東彼杵町で独立へ

それから真史さんは福岡医健スポーツ専門学校スポーツ科学科スポーツトレーナーコースに進学。身体の様々な専門知識を学ぶほか、スポーツトレーナーの実習を受けながら2年間の研鑽を積むさなか、病院でのリハビリ実習を受けた際にある思いがよぎった。

真史「スポーツトレーナーはフィジカルトレーニングとか運動によってパフォーマンスを向上させるみたいな側面が大きいんやけど、リハビリの実習をやってみて『やっぱりケアの方も勉強したい』って。それから整骨院でバイトを始めました」

整骨院で働き始め「自分がやりたいのはこれだ」と確信した真史さんは専門学校を卒業後、同じ学校の柔道整復科の夜間コースへ再入学。朝から夕方まで整骨院で働き、夕方から夜までは学校に通う生活を3年間続けた。

5年にわたる専門学生時代を経て、大村市の『山田整骨院』へ就職。その3年後の2012年の2月に同僚の紹介で出会った東彼杵町出身の女性と結婚し、同年5月には東彼杵町に新しく創設された分院『東彼杵整骨院』の院長に就任することになった。

真史「責任はすごく大きいよね。それまでは院で勉強させてもらえれば良かったけど、院長になるからには技術はもちろんのこと、ある程度の収入も出さなきゃいけない。やり果たさないといけないってプレッシャーはありました」

様々な不安はあったものの、地域のイベントに積極的に参加したりスタッフを通じてお客さんを紹介してもらうなどするうちに院の評判が広がり、次第に客足は伸びていった。

そして2016年。すでに多くの患者に親しまれていた『東彼杵整骨院』の名はそのままに、真史さんは独立を決めた。

真史「院の収入がある程度安定してきたこともあったし、学生時代の同期がどんどん独立・開業したと知って。独立する少し前に子供が生まれたこともあり、そういうタイミングなのかなと。それに人のつながりが深い東彼杵が好きになっていたので、住み続けたいと思ってそのままのれん分けしてもらいました。正直不安はあったけど、どんな仕事にもリスクはあるけんね。そこに負けないように強い気持ちでカバーしようって思ってたかな」

応援し続けてくれる家族

真史さん曰く「自分の両親は色んなことを自由にさせてくれた」という。友達に誘われてサッカーを始める時も、高校やその後の進学先を決めるときも、反対することなく「真史が決めたことだから」と受け入れ、見守ってくれる寛容な両親だった。

真史「自分に子供が生まれたからこそ余計に、今まで自由にさせてくれてすごいなって改めて思いますし、とてもありがたいと感じています」

東彼杵町に移って10年、そして独立して6年。妻や妻の両親のサポートがあるからこそ今の自分があると真史さんは語る。

真史「独立するといってもやっぱり一人で簡単にはできないので。妻の支えあってこそなのですごく感謝してます。たまにケンカもしますが(笑)。今は大村市で看護師として働いているので、自分が昼休みに晩ご飯を作ったりして家事も分担しています。そしてやっぱり互いに忙しいので、千綿にいる妻の両親に子供のお迎えに行ってもらったりなどサポートしてもらって。本当にありがたいです」

そして真史さんの実家がある諫早市飯盛町と東彼杵町、それぞれにも特別な思いを抱いているそうだ。

真史「飯盛は好きな場所なので、何かできないかなって思ったりはするけどね。積極的に動けるわけではないし、俺や整骨院が主じゃなくてもいいんだけど、高校卒業まで住んだ町だから。東彼杵もすごく良いところで、人がやわらかいよね。患者さんと話してるとみんな良い人で、こちらが助けられるというか。のちのち飯盛と東彼杵で何かしたいなとは思っています」

母校である長崎日本大学高等学校サッカー部OB会の一員として「全国大会へ行けるように応援を頑張らないと」と嬉しそうに話してくれた真史さん。彼の真摯な情熱は人の心も身体も元気にする、あたたかな力だ。

「みせ」の記事につきましては、以下の記事をご覧ください。