「デザインって、その分野に精通していない人から見たら謎の職業のように見えませんか?(笑)」
確かに、改めて言われるとデザインって何だろうと思う。芸術? 美術? まるで空を掴むような曖昧な言葉だが、人間が創造する『モノ』に必ず、そして深く関わる創意工夫の根幹を成している大切な東彼杵にも、芸術畑で育ち、デザインを生業にしている人がいる。『小玉デザイン制作室&写真室』の小玉大介さんだ。
進学、就職、震災、ボランティア…
全ての道が、『デザイン』に通ず。
小玉「小さい頃から絵を描いたりデザインに関わるのが好きで、高校の時も進んで油絵専攻に通っていました。そして、絵を極めるならトップを目指そうと思って、東京芸術大学を目指していたら…いつの間にか3浪(笑)。気持ちを変えて、早く大学に行こうと視野を広げ色んな美大を見た時、山形にある『東北芸術工科大学』に惹かれました。都会の美大みたいなスピード感はなくとも、ゆったりとした校風が自分の肌に合ったんですね。また、自身ももう一度見つめ直したほうが良いと考え、すぐに入学をしました」
当時、油絵が好きかどうかすらもわからなくなっていた小玉さん。少し油絵と距離を置いたほうが良いと思い、畑違いの映像学科へ。そこで、デザインについて研鑽を積んでいった。
小玉「卒業後は表現活動をしたかったので、就職活動をしていませんでしたが、色々あって大学本部の事務局に入社することに(笑)。事務局で2年間働くなかで、ヘッドハンティングにより宮城県にある仙台メディアテークという文化施設で今度は学芸員の仕事を行うようになりました」
「学生相手に、就職活動もしていないのに就職担当として相談を受けていた」と笑うが、それも氏の気さくなひととなりが縁を生み、人と繋がることで自然かつ必然的に事が進んでいったのだろう。しかし、そこで未曾有の東日本大震災に遭うのだった…。
小玉「震災のあった年に被害の大きかった仙台に引っ張られたんで…。大変でしたね。それで、震災後は震災に関連するアーカイブを作ったり、展覧会を担当したり。何かを記録することで、何かを考えるとか、仕事としてやりがいを感じました。仙台市の人って、真面目だからみんなで一回集まって考えよう、というような会が成り立つんです。こういうのって大事だなと。今まで表現にだけ固執していたんですが、記録と表現は合致するなと」
ただ自分が表現すればよかった大学時代とは違ったものの見方をしなければならないし、それを経験できたからこそ新たな考えが生まれるのだ。震災で人生が変わらざるを得なくなった人は多い。同じく、人生観が変わる人も多く存在する。
小玉「ボランティア活動をしていると地元に帰りたいなという気持ちが芽生え始め・・・。やっぱり、地元の人じゃない感覚がずっとあったから」
小玉青年が次に向かった先は地元長崎
『地域おこし協力隊』から実際の『仕事』へ
小玉「それで、2013年に東彼杵町へ戻ってきました。地域おこし協力隊の第1号として。当時、東彼杵はまだ何も開かれていなかったですから。もし、それ(地域おこし協力隊)がなかったら帰ってきてなかったですね。自分で何か盛り上げる、とかそこまで考えてなかったけど、もしできるんであれば協力隊の立場が良いかなと。そして、商工会で森くん(森一峻さん)とも会って。はじめ、僕は覚えてなかったけど(笑)」
3年の任期中に、長崎市で『樂』という雑誌を刊行する株式会社イーズワークスへ修行をしに足を運んだ。1年半通って写真とデザインとを勉強して経験を積み、2016年に小玉デザイン制作室の開業に至ったのだ。そして、現在の活動に至る。
小玉「またデザインに戻ってくるなんて思ってもなかったですね。長崎を出てからやってきたのは、どちらかと言ったらファインアートの方なんですよ。これまで油絵のトラウマでデザインを避けてきたから(笑)。でも、高校時代から油絵とかではなくてそういうデザインが向いていると言われていたことがありますね」
事実は、それが重なる人生は小説よりも奇なり。いろいろな経験を通し、いろいろな人との出会いを重ねて、また原点へと戻っていくこともある。そのときは、以前と比べものにもならない力を蓄えて。
小玉「自分では元々、今仕事にしているようなデザインをやらないほうが良いと思ってたんですが、こういう感じの方が今の自分には合ってると。やってみないと分からなかったことですね。意外とデザインの仕事でも自分を出せるから、『いいじゃん!』みたいなね」
地道に。愚直に。
仕事を続けて、未来の担い手へバトンを渡す。
小玉「最初は長崎の雑誌の仕事が半分くらいあった。そして、今はここ(東彼杵)から広がった仕事が大部分を占めています。3年間、とにかく綱渡りでやってきたけど、ここに基盤を置いて今後もデザインの仕事をやっていきたいですね」
これまで、デザインを基軸として仕事を担ってきた氏。今まで培ってきた能力を、更に未来でどう発揮していきたいのだろうか。
小玉「でかい仕事はしたいよね。『ああ、知ってる!』みたいな(笑)。あんまり名前は出ないでほしいけど、あの作品は俺が作ったんだよみたいなことはしたいです。今の活動を続けていれば、それはできることかと。コツコツやっていくしかないですよ。デザイナーも結局、長く続けたもん勝ちのところがあるから」
また、“町興し”という面でも貢献してきた中で、分かってきたことがあるという。
小玉「地域おこし協力隊としてやっているときから、“町興し”ってなんだろうな、謎だなと思っていました(笑)。若者がイベントするみたいなイメージで、それをしなきゃいけない雰囲気があるけど、それは違うかなと。僕の考えとしては、僕らがこの地で商売をやっている時に先輩方が僕らにいろんな支援をしてくれました。それをすれば良いのかなと。ただ、今度は下の世代にバトンを渡すだけですよね。そんなに難しくなくて、資金援助やアドバイスなど、その意識を持ってれば良い。大々的にやらずとも、普通のことをすれば良いのかなと考えています」
デザインは町興しを生み、活気付けばまたそれは町の新たなデザインとなる。デザインの奥深さをしみじみと感じた。小玉さんは、現在もトラウマになった油絵は描いていないそうだ。「描きたくないことではないけど、息をするように描くことができなくなったからダメですね」と。記者は、そんな氏の油絵もできれば一度見てみたい。
みせについての詳細は以下の記事をご覧ください。