東彼杵で数十年愛されている老舗の料亭旅館。
その大きな屋台骨を支えているのが、現当主の東坂良久さんと妻のるみ子さん夫婦です。
2021年の初夏、若松屋では手間をかけ完成させた特製の『くじらカツ弁当』を販売します。そのことを記念し、良久さんとるみ子さんにインタビューを敢行しました。今回はお二人それぞれがこれまで歩んでこられた人生や結婚のことなどをお伝えしていきます。
若松屋で生まれ育った良久さん
旅館業を営む家庭に生まれた良久さん。先祖代々受け継がれていた旅館ですが、お父さんは別の仕事へ行っていたため、お母さんが旅館をサポートしていたとか。
良久「父は若いころ、くじら肉を扱う会社に勤めたあとに役場へ。それから母に出会い結婚しましたが、その後も長く役場で勤めたため旅館で働いていたのは母でした。曾祖母と一緒に畑仕事に出ていたのをよく覚えています」
せわなしく働く家族に囲まれて育った良久さんは、高校を卒業後に料理学校へ通い始めます。そして料理学校と並行しながら、県内で最古とも言われる長崎市の老舗料亭『一力』へ研修にも出向いていました。
良久「料亭一力には1年ぐらいいたんだけど、あまり料理をしたくなかったので途中で辞めちゃって(笑)。違う仕事に就くのも良いかな、って考えはよぎりましたが実家に戻ったので、若松屋の仕事やうちが龍頭泉でやっていた流しそうめんの仕事などをやるようになりました」
料理学校や料亭で学んだことを取り入れながら経験を積み重ねていった良久さん。若松屋での修行のあと、代々続いている旅館を受け継ぐこととなりました。
世界の海で捕鯨船に乗っていた、るみ子さんの父
妻の、るみ子さんは大村市松原の出身。お父さんは大洋漁業株式会社(現マルハニチロ)の船員として世界各地の海に行っていた人でした。20代の頃から200海里水域制限が決まった1970年代後半まで続けていたそう。
るみ子「父はくじらを捕らえるために南平洋や北洋まで漁に出ていたようです。半年に一回くらいのペースで帰ってきて、一か月もしないうちにまた漁へ戻っていたので家にいる時間は圧倒的に少なくて。私が高校生ぐらいまではそんな生活だったかな」
やがて、高校を出て働き始めたるみ子さん。当時の上司から持ち掛けられたとある話をきっかけに、夫の良久さんと出会うこととなります。
バレーボールでの出会い
るみ子さんに持ち掛けられたのは「東彼杵の児童体育館でバレーボールやってるから一緒にやってみない?」という提案でした。この提案してくれた上司は東彼杵の人で、仕事が終わったあとに時折仲間と集まってはバレーボールをやっていたとか。
るみ子「サークルのような感じで、週に1、2回は会社の仲間と何人かで集まってワイワイ楽しみながら身体を動かしていました。それまでは東彼杵というのは電車の通過点としか認識していなかったんだけど、せっかく誘ってもらったし行ってみようかなって。いざ行ってみたらそこに夫もいたんです」
良久「もともと身体を動かすのは好きだったし、バレーボールも好きだったから自分も体育館でよく運動に励んでいました。そこにあらゆる社会人の皆さんがやってくるようになって」
東彼杵の体育館で出会い、お付き合いを始めたふたり。しばらくして結婚が決まりましたが、良久さんからるみ子さんにこんな言葉が掛けられたそうです。
るみ子「『お手伝いさんがいっぱいおらすけん、何もせんでよかよ。客室の掃除も掃除係の人がやってくれるし、宴会の準備もせんでいいけん。ただ、夕食の時だけはまかない料理を作って』って言われて(笑)。それくらいなら楽勝!玉の輿やん!って嬉しくなりましたが、でもこの後が超大変でした(笑)」
ふたりの結婚生活
良久さんとるみ子さんが結婚したのは1985年のこと。それからのふたりの結婚生活はハードな毎日で、るみ子さんが特に印象的だったという結婚式のお話を教えてくれました。
るみ子「夫から何もしなくていいと聞いてはいたけど、結局何もかもやらなきゃいけなくて(笑)。結婚式の準備がとても大変で、部屋を新郎新婦の控室に模様替えしたりとか全部結婚式モードに変えなくちゃいけなくて。いつ寝るの!? ってくらいやることが多くてびっくりでした(笑)」
良久「若かったからできたんだろうね(笑)。今みたいにスマホがないのに、『あそこの店に買い物行ってきて!』って全然知らないところに行かされたね」
るみ子「まだ東彼杵にも慣れていないのに、早岐や川棚にと。『どこにその店があるの?』とさっぱりわかりませんでした。行ってこいと言われても初めての場所だし、道もわからないのに地図だけ持たされて(笑)。だけど言われるままにやらなきゃいけないし、とにかく無我夢中でしたよ」
ふたりが結婚した頃は経営が苦しく、時には近所にお金を借りに行くこともあったそう。また、その当時に高速道路の工事が始まり大勢の宿泊客が殺到していました。さらに龍頭泉での流しそうめんやレストランも経営していたとか。
るみ子「嫁入りしていきなり10人、20人のお客さんのお世話をしなきゃいけなくて。何が何だかわからない毎日でしたね。龍頭泉の方にも行かなきゃいけないし、本当に大変な日々でした」
良久「ふたり共よくやっていたと思います。龍頭泉やいこいの広場の自動販売機の世話もしていたから、夜遅くにジュースの入れ替えをする時、小さかった子供たちをよく連れて行ってたのを思い出すなあ」
ふたりで作り上げた料理
長きにわたって地元の人たちに親しまれている若松屋ですが、特に料理が美味しいと評判で大きな魅力となっています。素材はもちろん、味付けや調理法、見栄えにも徹底的にこだわり抜かれた品々のとりこになる人は多数。料理の種類も多く、お祝いのパーティーから法要まであらゆるシチュエーションで喜ばれています。
少し時間をさかのぼって、良久さんは高校卒業後に料理学校や料亭での研修を1年ほど続けたのち、実家へと帰郷。それからは料理を自分なりに模索していました。
良久「料理について学びに行ったものの、途中でリタイアしたからそこまで深く料理の勉強をしていないんです。だけどお客さんには食事の提供をしなくちゃいけない。なので料理学校で習ったことや料亭の料理を思い出しつつ真似するところから始めました。そこからは我流で作ってみたりして、懸命に料理と向き合っていました」
るみ子さんと結婚してからは「お客さんが喜んでくれる料理を作ろう」と決意。ふたりで試行錯誤を重ねました。
良久「ふたりであれこれ試作してみたり、色んな店に視察に出かけることもありましたよ。お店で食べて良いなと思ったものは積極的に取り入れてアレンジを加えたり。お客さんに美味しそう、食べたいと思ってもらえるような盛り付け方も研究しました。妻が一緒にやってくれたからこそ、今があるんだと実感しています。また、この多忙な若松屋を営んで来れたのも私達二人では、到底成り立っていませんでした、何より長年勤めて頂いている従業員の皆さんのおかげだと思っています。早朝より夜遅くまで一生懸命働いて頂いて感謝しております。」
力を合わせ、ともに若松屋を支えてきた良久さんとるみ子さん。ふたりが歩んできた道は決して平坦なものではありませんでした。
このような、様々な経験に裏打ちされたお二人の優しく温かな人柄が若松屋の魅力へとつながっています。おふたりは今も、これからも、お客さんの心を魅了し続けるでしょう。
若松屋のみせ・こと・ものについての詳細は以下の記事をご覧ください。