長年にわたって町の人々に親しまれている老舗の料亭
2021年初夏、若松屋では特製の『くじらカツ弁当』を販売することになりました。このお弁当には「近年若い世代がくじらを食べる機会が減っているため、鯨食文化がしっかりと継承されるように」そして「くじらに親しみのある年配の皆さんには懐かしい味をぜひ堪能していただきたい」という思いが込められているそう。
今回は現当主の東坂良久(とうざかよしひさ)さんと妻のるみ子さんに若松屋の歴史や背景、これまでの出来事などたくさんのエピソードを伺いました。
若松屋のはじまり
かつては商人宿として明治の初期頃から旅館業を主に営業していた若松屋ですが、実はいつ旅館を創業したのか、なぜ「若松屋」という名前なのか、など始まりについて詳しいことは分かっていません。しかし五代前の当主の名前は伝え聞いていました。
良久「曾祖父の兼作(かねさく)一代前の人物で、名は惣吉(そうきち)といいます。自分は惣吉が旅館を始めたのではないかと考えていますが、惣吉自体についても詳細は一切不明。ひょっとしたら、もっと昔の江戸時代から宿をやっていたかもしれません」
良久さんが子供の頃、祖父である光保(みつやす)さんは早くに失明していたため、若松屋を実質的に切り盛りし旅館業を営んでいたのは祖母と母親でした。その一方で父親は役所に勤め生計を立てていたとか。当時の思い出を良久さんは語ってくれました。
良久「祖父の光保は自分が5歳の時に亡くなったからあまり覚えてないんだけど…姉が言うにはよくおんぶして子守をしながら、目が見えていないのに客間や庭掃除をしていたそうです。当時は旅館だけじゃ経営が難しく、祖母が畑を耕して芋や麦を作っていて、母も一緒にやっていたのを思い出します。江頭の交差点あたりは(東そのぎインター付近)若松屋の畑だったんですよ」
やがて代が変わり、現当主の良久さんへと継承されていくことになります。
若松屋を受け継いだ頃のこと
若松屋を受け継いで妻のるみ子さんと結婚した頃の経営は苦しく、近所へお金を借りに行くこともあったとか。
るみ子「季節の節句や結婚式のお祝いをする時、昔は近所の人たちも呼んで40~50人くらいの大人数での宴会でした。だけど当時は料理の材料を買い求めるのも精いっぱい。忙しい時は佐世保から仲居さんを雇って手伝いに来てもらっていたんだけど、賃金を払う余裕もなくて。それで近所へお金を借りに行っていました」
しばらくすると高速道路の工事が始まり、たくさんの職人さんが長期にわたって滞在するようになり。そのおかげで経営状態も次第に良くなっていきました。
良久「六畳一間の部屋に3、4人すし詰めになって頂くぐらい、数多くの職人さんに利用していただきました。時には客間だけじゃ間に合わなくなって、宴会場を宿泊用の客間の代わりに。昼間に職人さんが仕事に出て不在になる時に一斉に片付けて、そのあと宴会や法事を行うということもありましたね。お泊りのお客さんで満室の時は宴会をお断りすることもありました」
るみ子「嫁入りしていきなり10人、20人のお客さんのお世話をやらなきゃならなくて。びっくりしましたし、当時は何が何だか分からなくてすごく大変でしたよ(笑)」
そうめん流しとレストラン
若松屋では旅館業だけでなく、かつてそうめん流しやレストランを経営していたことも。そうめん流しは龍頭泉から少し山を下った場所に、レストランは龍頭泉の上流にあるキャンプ場『いこいの広場』の管理棟の中にありました。
良久「元々そうめん流しは別の方がやっていて。自分が高校を卒業した後くらいに父が購入し、5つ上の姉が主体になって運営していました。ですがそのあと料理の修行から戻ってきた私が後を引き継ぐこととなりました」
レストランは1985年ごろ、いこいの広場が開業したと同時にオープン。当初はお客さんがひっきりなしに訪れるお店でした。
良久「レストランは姉夫婦に手伝ってもらっていました。最初はお客さんがすごく多かったのですが、他のレジャー施設ができたり、お客さんの趣向が変わって広場自体のお客さんが少なくなったのもあり、寂しい状況に。姉夫婦は手を引くことになりました。それからは週末だけ妻にレストランをまかせたり、アルバイトさんにお願いする状況が2年ほど続きましたが店はたたむことになりました」
るみ子「20代から30代はめちゃくちゃ忙しかったです。3人の子供たちを育てながら旅館や宴会の切り盛り、弁当の配達、そしてレストランもあって。今思うと若かったからできたことだと思います(笑)」
良久「大げさに言えば寝る暇がないほど大変だったね。よく頑張ってくれました」
建物をリニューアル
時系列は前後しますが、若松屋では老朽化していた旅館の建物を一部取り壊し、1976年頃に宴会場を増設し2階建てへと新調しました。
良久「宴会場ができたのは自分が高校生の頃。それまでは旅館のみだったんですが宴会もできるように、と新調しました。当初は宿泊客が6割、宴会の客が4割ぐらいだったかな。しばらくしてからは宴会のお客さんが増えました。節句や結婚のお祝いとか法要など、大事なイベントで使っていただくことが多いですね」
そして2006年には更なるリノベーション。この頃は宴会の仕事がメインになっていましたが、宴会場が2階にあるためお客さんから「階段が急で怖い」「畳に直接座ると足腰がつらい」などの声が上がっていたそう。
良久「お客さんから不満の声が増えてきて、エレベーターなどの設備を設けてバリアフリーにしなきゃ、と考え始めました」
るみ子「特に法事は年配の人が多いから……。どうにかしなきゃとは話し合ってたんだけど、エレベーターを設けるにも場所がなくて」
良久「このままではお客さんが離れてしまうかもと思い、いっそのこと改装しよう!と一大奮起。以前造り酒屋の製品倉庫だった隣家をリノベーションして、宴会場に特化した会場を作りました。デザインにもこだわって段差が少なくし、当時まだ近隣では少なかったイス席での会食会場を設けました。どんなお客さまにも喜んでいただける優しい場所になるよう心がけました」
この改装の際、工事を担当した方々が新たに部屋の名前を考えてくれたとか。聖(ひじり)の間は東彼杵から大村湾を船で渡り処刑場へと向かった二十六聖人から、碧(みどり)の間は東彼杵名産のお茶から、橙(だいだい)の間は東彼杵で盛んに生産されるミカンが由来となっています。
そして月の間、星の間はそれぞれ独立した部屋ではあるのですが、仕切りを取り外して大きな一つの部屋にすると夜空の間へと名前が変わるそう。どのお部屋の名前も素敵で、実際に訪れてみたくなりますね。
さまざまな出来事をくぐり抜けて
ここでは書ききれないほど、幾多の出来事をくぐり抜けてきた良久さんとるみ子さん。料亭旅館を営むのがいかに大変かをひしひしと感じます。
しかしどんなに大変な出来事のお話でも、和やかな雰囲気の中で笑いも交えながら、気さくに、真摯に、そして前向きにお話をしてくださり、若松屋さんが数多くの人に愛される理由を改めて実感するひとときとなりました。
これからもずっと応援していきたい、大切なお店です。
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