先代の遺した”秘伝のタレ”を守り、京の都で磨いた腕を振るう。『料亭 栄喜屋』3代目大将・森俊通さん・由美さん夫妻

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『料亭 栄喜屋』3代目大将・森俊通さん・由美さん夫妻

東彼杵町の住民が親子孫3世代に渡って通う老舗『料亭 栄喜屋』。

これまで『みせ』の記事において、創業当時から東彼杵の人々に愛され続けてきた歴史を辿ってきた。

俊通「駅が1927年にできたけん、創業は94年前。店が今の場所に移ったとは、おいが中学1年生くらいやけん約41年前。でも、移転してから6年しかおらんかった。高校卒業して、すぐ大阪に行って料理修行の道に入ったけんさ」

今度の『ひと』記事は、3代目大将・森俊通さん自身にスポットを当てて、氏の修行時代から妻の由美さんとの馴れ初め、そして東彼杵の地に戻ってお店を継いでいく中でのエピソードなどを紹介したい。

厳しく、辛い、修行時代。

高校卒業後は大阪の調理師学校に1年行き、それから京都の老舗に修行に入った。

俊通「最初は店に住み込みで、働かせてもらっとった。四畳半に3人が同居。そいで、ちょっとした棚と着替えを入れるケースが3人分。それだけの部屋と、そこに収まる荷物。もう、寝るだけさ」

住む部屋は狭く、また生活も豊かなものだとは言い難かった。

俊通「まかないは一品おかずのあって、ご飯はいくらでも食べてよか。やけん、ちくわ一本でご飯3杯食べよった時期もあった。そいだけ。給料も最初は5万円から。風呂は銭湯で10回で2100円。散髪にも行かんといけん。もう、丁稚奉公に近かよね(笑)。そいで、親方の孫守りばしたり、大工仕事みたいなこともしたり。修行ばしよるはずなのに、おいは何ばしよるっちゃろうって」

それでも、働いていた料亭は、一見さんお断りの1人1万円以上はかかる老舗。バブルに突入する頃で、良い食材を使ってきてたため収入も支出も多い時代だった。

俊通「バブル絶好調の時は、おつりいらんってみんな言わすとさ。そいだけじゃなくて、板さんたちにって1万円をポンと置いて行ったりとか。それを全部まとめておいて月の終わりとかに分配しよったけど、そん時は一人10万円くらいなっとったね。今はもうなかけど(笑)」

親方から外に出て良いという許可を得て一人暮らしを始めるまで、3年の月日が流れた。そして、その全部を修行に注ぎ込んだ。同級生たちが学生として遊んでいる中、そういった世界で生きてきた。

俊通「それまでに、自分でレベルば上げていくとさ。最初は洗い場から。初めん頃は余裕がなかとけど、そっから余裕の出てくっと合間に調理場ば見たりして。上の人が味見して流しに置いた鍋についとるタレなんかを舐めてメモしてとにかく吸収しよった。焼きなんかも焼く時間ばじっと見て計って、部屋に戻って復習したりさ」

そうして、洗い方、焼き方、盛り付け方などに別れて弟子3人が親方のサポートをしていた。

俊通「ひとつ、またひとつとできることが増えていくにつれて給料も上がっていく。最初は、大根の桂むき。これまで調理学校でやってきたのと実戦とは全然違う。休憩時間で近くの八百屋に行って大根ば買うてきて一生懸命調理場で自主練習するとけど、なかなか上手くいかんとさ。時には、尋ねてコツを教わりつつひたすら練習しよるうちにむけるようになって。そしたら、親方が帳場にいて、それば見とるとやろうね。おいは、親方から『とっさん』って呼ばれよったけん『とっさん、今日から大根むいてみろ』って。さらに練習ば重ねて上手くむけるようになると給料がポンと上がる。他には、出汁巻きの巻き方。タオルに代えてクルクル回す練習から始めて、休憩時間に今度は卵を買って練習ばして。すると、ある日親方がまかないで『俺のおかず、とっさんが出汁巻き巻けよ』と。火加減とかも音だけでわかっとらすけん『おお、いい音してきたな』と。そいで、巻けるようになったらまた給料のポンと上がって。それの繰り返し」

そうして、親方の店で腕を磨くこと10年。その頃には、煮方という味付け全般を任されるようになっていた。

俊通「親方は自分の見える範囲で仕事をしたか人やったけん、あまり多くの弟子はとらっさんやった。そして、おいが入った頃は集大成みたいな時期やったけん自分の下には1人、2人くらいしかおらん。修行を終えてから親方は亡くならした。葬式に行ったもんね。店は、息子さんが後を継がんかったけん、崩して売って」

かつて修行をしていた京の老舗は、今はもうない。だが、氏の心の中には、今もなお色濃く残る思い出としてあり続けている。

ラブストーリーは突然に。
修行先での出逢いから、結婚へ

京都での修行中に、妻の由美さんと出逢った。

由美「夫もその時アパートを借りて1人暮らししよらした頃で、同僚の人と鴨川に遊びに来てた。私も、たまたま従姉妹と四条河原町に遊びにきていて。当時は4月で、まだ寒か時に女性が酔っ払って鴨川に落ちたと。それを夫たちが助けて、私たちが手伝って。そこから仲良くなって、一緒にご飯でも食べに行こうかってなって」

とある出来事がきっかけで、運命の赤い糸は結ばれた。

「でも、当時は携帯とかなかけん電話番号もわからんし、会いたかと思っても会えない。一度人助けした時に寄ったアパートは覚えとっても、そこに行くまでの道もわからない。それでも、従姉妹と2人で探しよったら、たまたま出てきて(笑)。そうして夫が21歳、私が18歳の時に付き合い始めた」

2人は逢瀬を重ね、やがて結婚することになる。親方はそんな若い2人を見守り、結婚する際は婚姻届も書いてくれたという。

「結納の時も店で食事をさせてもらったし、いろいろお世話になった。結婚してもまだ修行中やったけん、しばらくは京都に住んどった。でも、夫は栄喜屋を継ぐ前やったしお披露目ばせんば帰ってきた時に3代目って名乗れんけん、結婚式だけ大村市の農協会館で挙げたと。そして、上の子が産まれて2歳ぐらいになった時に東彼杵へと戻ってきた。1993年。私が23歳、夫が27,28歳くらいの頃ね」

地元の京都とは全然文化が違う。来た当初は戸惑いばかりだったという。

「すること、なすことわからんとさ。言葉もわからんし、自分の言ってることも関西弁やったけんお客さんには通じんし。愚痴を聞いてくれる友達もおらん。1人で毎晩、夜中に泣くしかなくて。長男抱えて京都までの片道のお金だけ持って帰ろうと何度思ったことか。でも、長男が保育園に行き始めて、いろいろ話したりする人ができて、1年ぐらいしたら慣れてきた」

食の京都で和食の技を携えて
東彼杵きっての名店へ駆け上がる

京都を出て東彼杵へ戻ることにしたのは、2代目を継いだ父が目を悪くしたのが理由だった。

「家に戻って仕事ばせんばいけんなと思って、帰ることになった」。だが、帰ってきて自分の磨いてきた腕を振るうも、地元の人たちに京都の味自体は直では受け入れてもらえなかった。

「東と西でも好まれる味は全然違うたい。東京あたりのつゆは、辛くて(俺は)食えんさ。そんな感じでこっち(九州)は、濃ゆくて甘か。京都やったら素材の味がほとんどで、あとは出汁でどう勝負するか。でも、こっちでは食われん。だから、一時期お客さんは珍しいものを食べれるねと来てくれよったけど、自分なりに工夫をして調整ばしていった」

長崎県民の味覚に修正を加えつつ、京都で覚えたスタイルは残しつつ。そうして、徐々に融合させて新しいスタイルで栄喜屋は愛され続けている。

「ウチは湯葉とか生麩とか使うたい。やけん、もともと京都で使いよったところで今でも仕入れよるとさ」

栄喜屋名物の鰻の炭火焼き。鰻を焼くのも、父親の見様見真似から始まった。

「最初は親父の焼きよっとば見て、それを真似して焼きよった。そしたら、だんだんおいに任せるようになって『もうよか、できる』って言って自分は焼き場を離れていった。味は、門外不出で周りには教えない。先代から親父とうちの母ちゃんとだけが味を知っとって。それを俺ら夫婦が受け継いで、おいが味付けばメインに。そいけど、1人で作るとその時その時で体調の違うけん、2人体制で確認し合って。それをずっと引き継いできた」

かっちりしすぎないのが魅力。京都の老舗で修行しつつも、きっちりスタンダードな京和食ではなく、自由で少しくだけた感じが、かえって居心地良く懐石、割烹を楽しめる。気さくで人間味溢れるご夫婦が営む老舗栄喜屋で、ひとりでも、気の置けない友人とでも、みんなでワイワイでも、旬の味覚を楽しみたい。

みせ・ことについての詳細は以下のそれぞれの記事をご覧ください。