戦争をくぐり抜けた門外不出の秘伝の“タレ”
美味しい料理。落ち着ける空間。店主たちとの楽しい会話が楽しめる。東彼杵町に、そんな全てが揃った足繁く通いたくなるお店がある。3代目となる森俊通さん・由美さん夫妻が営む『料亭 栄喜屋』だ。昭和2年創業で94年繁盛し続ける老舗には、戦争をくぐり抜けた門外不出の秘伝の”タレ”が受け継がれているという。いかにして、時代を繋いでいったのか。その成り立ちから現在に至るまでを伺った。
千綿駅付近でみんなを喜ばせ続けた
創業94年の栄喜屋の歴史
「うち、店ばしよったけん、結構来よらしたっちゃなかかな。カメラマンじゃなかけど、写真屋さんがさ。オシャレかよね」。昔の写真を眺めながら、笑って話しているのは3代目の森俊通さんだ。清々しいまでの長崎弁がなんとも聞こえ良く、修正するとかえって不自然なため今回は方言そのままでお送りしたい。
創業者は、大将の祖母にあたる方で、名は、森ルイ。通称『おるい』さん。そして、2代目は父親の洋義さん。3代目で現代に至る。現在は移転しているが、創業当時は千綿駅付近、現在のさいとう宿場の斜め向かいの地で店を始めた。
俊通「2階建てやったけど、庭を見たら(店が)こげんこまかった(こんなに小さかった)かねって思ったね。1階は土間があって、2階が宴会場やったけん。そこに、生活スペースも全部一緒にしとったけん。廊下挟んで障子1枚だけやったけん、土間で酔っ払ったお客さんが2階に上がってきては絡んできよった。でも、おい(俺)たちも慣れとるもんで、普通なら怖くて泣き叫ぶっちゃろうけと、それが当たり前の光景やった」
パーソナルスペースがあまりなかった当時。だが、良いこともあった。
俊通「当時はお年玉をすごくもらいよった。みんな気が大きくなっとるけんさ、突然財布からお金ば出して渡して『俺もやるけん、お前もやれさ』みたいな感じで宴会に来ている仲間達全員がそんな空気になって、あれよあれよというまに子どもがもらうにはすごか金額になったもんね(笑)。今は同窓会って言ったら20人でも多か方けど、昔は80人とか普通やったけん。そがんよか時代もあったっさ」
栄喜屋名物『鰻の炭火焼き』。
長く愛されてきた所以は、タレにありけり
栄喜屋に行くなら、必ず食べたいのが創業当時から出し続けている『鰻の炭火焼き』だ。
俊通「先代のおるいさんの時代から鰻ば焼きよって。昔は鰻ば入れとくような石かコンクリートかでできたタンクのあって、そこには水の出よったとよ。そこから(鰻を)取り出して、捌いて、焼きよらしたっさ」
焼き方にも、店独自のこだわりがある。
俊通「ウチの焼き方は、一焼きして、二焼きして、そいから本焼きして。最後、タレに入れてブワッと乗せるとさ。蒸したりは一切せんでね。歯応えのあって香ばしくて、そいで千綿の炭ば使いよるけん、炭の匂いも上手くしよって。そいけん、美味かって言ってくれる人の多くてね。フワッとした感じはなか。逆に、そういう鰻は(自分は)食いきらんさね」
東京から来る客の中にも、どうやって焼いているのかと聞かれることがあるそうだ。
俊通「『ウチは蒸し焼きしません、地焼きですよ』っていうたら、『地焼きを食べたかったんです』と言ってくれて、次の週もまた東京から来てくれたもんね」
そして、何よりのこだわりは、門外不出で継ぎ足されてきた、おるいさん”秘伝のタレ”にある。
俊通「継ぎ足し継ぎ足しで、最初は甕に入れとったらしか。戦時中は、空襲警報が鳴ると着の身着のまま防空壕に向かうとやけど、タレの入った甕だけは大事に持って行きよらしたとって。でも、その甕は確か一度割れたかヒビが入ったっちゃなかかな。そいけん、親父の代からは鍋になったもんね。今は、太か(大きい)鍋に入れて、そいで鍋が劣化したらダメやけん劣化する前に新しい鍋に入れ替えて、ずっと保存して、保存して。今も門外不出で、婆ちゃんが防空壕に持ち込んでまで守りたかったタレば守っとるとよ」
創業以来94年。常に継ぎ足をし続け、変わらぬ味を守り続ける栄喜屋秘伝のタレ。今もどこかから、微かに、だけどきっと当時の香りが残っていることだろう。当時のことを証言してくれる人は、減ってきている。タレを守るということは、当時の思い出も風化させずに語り継いでいくということなのだ。
今は無き、厳しくも古き良き時代。
孫を愛し、地域の住民を愛したおるいさん
俊通「おいが子どもん頃は、手伝わされるというよりもめちゃくちゃ可愛がられとったけん。婆ちゃんに連れられて嬉野とかまで風呂に入りに行きよったね。そして、絶対肉うどんを食わされてさ(笑)。婆ちゃんが主で店ばしよる時は、母ちゃんが夜においばおぶって農協(現在はsorriso riso)まで岡持ちを持って届けに行きよらした。昔はさ、嘱託で学校や郵便局に夜でも誰かがおったけん、作ったちゃんぽんば届けにね。でもさ、冬なんか寒かたい。うちの母ちゃんはカイロ代りと真夜中で怖いのもあっておいばおぶって行きよったって言うもんね。婆ちゃんが強かったけん、母ちゃんも結構鍛えられたみたい」
みんな毎日夜まで働いて、栄喜屋に寄って食べて飲んで、そして汽車に乗って帰っていた。
俊通「当時は先生も、郵便局員も、みんなね。農協の人もベロベロでさ(笑)。それが、婆ちゃんたちの時代。でも、婆ちゃんは葛藤があったんやなかかな。子どもの面倒を見たかけど、仕事をせんといかんやったけんさ。本当、戦争を潜り抜けてきた人は強かよ。それも最初は女手ひとつやけんね」
妻の由美さんも、おるいさんのエピソードがある。
由美「夫と付き合い始めて初めて東彼杵に来た時には、お婆ちゃんは川棚町の孔雀荘に入院しとらしたとさ。私の地元銘産品の京人形を持って病院に行ったら、めっちゃ嬉しかったとやろうね。孫が嫁を連れてきたくらいに思うけんさ。それで、お父さんとお母さんが次にお見舞いに行った時に、『俊通の好きな人と結婚させてくれ』って言ったとって。人形も大事にし過ぎて割ったらしくてね」
そんな孫思いのおるいさんは、晩年まで仕出しと宴会と、食堂と、配達と。いろんな形で栄喜屋を繁盛させていた。
由美「出張もしよらした。昔はさ、法事とかお祝い事とかのときにその人の家に茶碗を持って行って向こうで台所ば借りて炊き出しして。泊まりがけでもいきよったって。そして、地域の人たちばだいぶ巻き込んで仕事ばしてきた。みんな、『おるいあんに言われれば』と力を貸したそうやけん」
千綿には当時食堂はひとつしかなく、駅前という立地だったこともあり、いろんな人を呼んだ。裕福ではない人も多く、それでも「お金は後からでよかけん」と振る舞っていたそうだ。
名は体を表すという。栄て喜ぶ。昭和2年当時、千綿銀座と呼ばれるほど栄えた千綿駅街道筋で食堂をはじめた創業者おるいさんは、”地域のお母ちゃん”としてみなを育てて喜ばせてきた。