山田祐(たすく)さんと恭子さんは、海のそばにあるカフェ『おっぷら』を営むご夫婦です。結婚後はドイツへ滞在し、日本へ帰国後は長崎県内を転々としたのち、30年前に東彼杵町へ移住しました。
数十年にわたって祐さんが主体となって木工やキャンプ指導などを行う『少年山荘』という野外活動を続けており、2019年11月からは恭子さんが代表を務めるおっぷらの運営も行っています。
おっぷらでは恭子さん特製のパンやケーキなどを味わえるほか、祐さんが作成した木工作品も展示販売中。その居心地の良さから地元のみならず県外からのお客さんも訪れる人気のお店です。
ふたりの生い立ち
祐さんは岡山県玉野市に生まれ、10人兄弟の末っ子として育ちました。玉野市の基幹産業である造船所には修理などで外国船籍のタンカーが集まり、多くの外国人が滞在していたそう。祐さんの子供の頃は日常的に乗組員の皆さんとサッカーをしたり文通をしたりなど頻繁に交流をする機会があり、将来は海外に行きたいという夢が膨らんでいきました。
また、幼少期から家族で大山などの山間部へキャンプや昆虫採集に出かけ、山登りや標本づくりに没頭したりサッカーやスキーなどのスポーツにも励んでいた祐さん。小学4年生の頃からは国内にも興味を持ち、東京以西のあちこちを一人旅で巡りました。
やがて外国人が沢山住む街の大学に行きたい、と佐世保にある県立大学へと進学。そこで加入したユースホステル関係の連盟サークルを通じて、妻の恭子さんと出会いを果たします。
恭子さんは大阪に生まれ、お父様の仕事の関係で神戸、岡山、武雄、長崎を転々としました。小学校低学年の頃は岡山にある高梁川の源流に住んでいたとのことで、流れる水の美しさや豊かな自然の風景が今も印象に残っているそう。
高校卒業後は東京に行きたいと考えていた恭子さんですが、お父様から反対され断念。子供の頃からお菓子を手作りするのが好きだったこともあり、活水女子短期大学(現在の活水女子大学)の家政科へ進学しました。やがて祐さんと出会い、ユースホステルの本場であるドイツへ行こうとふたりで目指すこととなります。
憧れの地、ドイツへ
それから祐さんは大学3年で大学を休学してアルバイト生活を始めます。一方、恭子さんは短大を卒業後に福岡で教育映像関連の仕事をして渡航費用の捻出に専念。やがて旅費の目処がついた1981年、25歳の時に日本を出発しました。
まずはモスクワ経由でパリへ。現地で宿を見つけ、キャンプ用コンロで料理をするなど工夫をこらしながら生活を送りました。宿を拠点にヨーロッパ中の美術館、動物園、自然の山などを巡り、いよいよ2か月後にドイツのユースホステル協会へ向かいます。
祐さん「学生のころ働いていた那覇ユースホステルのペアレントさんに書いてもらった推薦書を携えてドイツのユースホステル協会に『日本から勉強に来ました』と飛び込んだけど、なかなか理解を得られなくて。それでも一週間近く日参するうちに熱意が通じたのか就職の許可が出たんだよ」
それからドイツ南部にあるボーデン湖畔の施設と、黒い森の中にある施設の2ヶ所におよそ2年にわたり滞在。その後は恭子さんが出産のため日本へ帰国することとなりました。
あわただしかった毎日
帰国後は恭子さんの実家がある長崎市内へ。祐さんは学生時代に子供たちを対象とした野外活動をボランティアで行っていましたが「日本に戻ってからも子供に関わる仕事がしたい」と長崎ユースホステル協会のイベントを手伝ったりアルバイトをしながら、木工作品のコンクールにも度々出品していました。
やがて祐さんが娘さんのために作ったドールハウスが横浜のジオラマコンクールで賞を取ったことをきっかけに、プロの木工作家として活動を開始。当時はまだおもちゃ作家の存在自体がかなり珍しい時代でした。
取材や家族の暮らしを伝えるドキュメンタリーなどで頻繁にメディアに取り上げられても生活の安定は程遠く、製作したサンプルを抱え各地の保育園に営業へ出る日々が続きます。帰国から10年が経ち、時折開催していた保育園での木工や料理教室が少しずつ定着してはいたものの、将来が見えるという状況には簡単にたどり着けませんでした。
また、作家活動と並行して野外活動も積極的に行っていました。長崎の各地に出向いて子供たちにキャンプやアクティビティを教える仕事も、木工と同じく山田さん一家を支える大きな柱となっており、やがてこの活動で生まれた縁が東彼杵町へ移住するきっかけを生むこととなります。
屋根が飛んで、東彼杵町へ
およそ30年以上前、長崎を襲った大型台風の影響で伊王島の自宅の屋根が吹き飛びました。自然に囲まれた暮らしをしようと住み始めて2年目のことです。あらゆるライフラインが断絶された数日後、ようやくかかってきた一番最初の電話が東彼杵町役場からの安否確認の連絡でした。
この前年の夏、祐さんは役場職員の方から『いこいの広場』につくる木工館の運営に関して相談を受け、キャンプ場に宿泊しながら東彼杵の小学生の指導を行った経緯があったのです。
「役場の方から『大丈夫ですか?』と連絡があって、屋根が飛んで修復中だと伝えると『よかったら、家を探すからうちの町に移住して仕事しませんか』って言ってくれて」
それから数件の家を見てみたものの、条件や交渉が合わず足踏み状態でした。しかししばらくして知り合いの奥様から連絡があり、家を紹介してもらえることに。大野原高原の裾野、平似田郷の中腹にあるその家の環境が気に入り、息子さんの小学校入学に合わせ転居することとなりました。
理想はゼペット爺さんのような暮らし
東彼杵に移った後も夫婦二人三脚で長年に渡り活動を続け、2019年からはカフェ『おっぷら』の運営も開始。2022年4月からは祐さんのライフワーク『少年山荘』の新拠点づくりがスタートします。
将来はできるだけ人工物の少ない豊かな自然の中でモノづくりをしながら、そして時折子供たちにアウトドア体験の指導をしながら、オフグリッドな(電力や水道などを自給自足する)生活を送りたいと祐さんは語ります。
「雨水をためて、薪で火を起こして……ご飯を食べるためには枝を拾ってくるところから、みたいな遊びの提案ができたら。自分で縫ったテントや寝袋で寝て、自分で作ったコンロで釣ってきた魚を料理する、こんな遊びを作り出す体験を伝えたい。そんな体験をブームではなく文化として伝えられる場所づくりをしたいな」
恭子さん「畑もお借りできるようだから、少し野菜も作ってみたい。ものの流れがはっきりわかる暮らしね。人間の原点がどういうものかを、私たちの今までの経験を通じて若い人たちに伝えていきたいと思うの」
大変な出来事が起きても、共に力を合わせて闘い、時には知恵を出し合って楽しみながら乗り越えてきた祐さんと恭子さん。カフェおっぷらのそばでさざめく大村湾の波音が“おふたりのこれからの日々を祝福している”と感じるインタビューとなりました。
「みせ」の記事につきましては、以下の記事をご覧ください。