長崎・佐賀をつなぐ主要道路のひとつ、長崎街道・国道34号線。大村湾を眺めつつ東彼杵町を走っていると『東そのぎグリーンテクノパーク』という看板が見える。そこから、山間を上がっていく先にある工業団地に、航空機や半導体の部品を製造する『株式会社ウラノ』の長崎工場はある。現在副社長を務める小林正樹さんは、埼玉県出身だけど今やすっかり長崎県民のひとり。今後、埼玉に戻る可能性を聞くと「ないですね(笑)」とキッパリ。大好きになった長崎の地で暮らし、家庭を築いてきた。お世話になっている地元の人たちに、長崎の地に何か恩返しをしたい。その一心でさまざまな活動にチャレンジしている。
ウラノ×長崎事業に導かれ、
始まった新たなキャリア
父、小林義信さんが経営してきた株式会社ウラノ本社がある埼玉県で、生まれ育った。
小林「理系の学校に通っていたんですが、家業は兄が継ぐということで今の会社に入るということは頭になく、将来的に介護施設を立ち上げるつもりで6年ほど社会福祉法人で働いていました。それで、たまたま会社から事業を一緒にやってほしいと呼ばれ、転職することに。なので、入社した当初は、右も左も分からない状態からのスタートとなりました」
ウラノとは、どのような企業なのだろうか。
「1950年から金属加工を生業として創業し、いろんな産業で必要となる金属を削る仕事をしていました。その中で、航空機の部品だったり、半導体製造装置の部品といった技術を要する精密部品を提供するようになっていきました。埼玉県の熊谷市から車で30分くらいの場所、川を挟んだ隣は群馬県という児玉郡上里町というところに本社はあります。1979年に移転してからずっとその地でやってきたのですが、事業拡大のために新たな土地を探すことになりました。そこで、条件が合った誘致先の長崎県に工場を作ることになりました」
埼玉から、長崎へ。それも、東彼杵の地へ。何もかもが異なる環境ではあったが、長崎が持つ資源の魅力と可能性を感じ、工場新設を決断した。
「当時の社長、現在の弊社会長になるのですが、生まれも育ちも”海なし県”である埼玉県。海がないことが当たり前の暮らしだったのですが、長崎県の産業振興財団から誘致の話をもらったんです。『長崎県は、災害リスクの少ない良い土地と、優秀な人材が多くいる』ということで。そこで、何度か足を運んでいるうちに地元で獲れた魚をご馳走になり、それがとても美味しかったらしく(笑)。自然豊かな土地で気候も穏やかということで、東彼杵の地が気に入ったというのが決め手になりました。長崎工場は2006年創業開始で、今から16年前の話になります」
長崎工場立ち上げ時から、小林さんは一緒にこの地にやって来た。
「当時、私は本社でちょうど1年間働いたところで、まだまだ仕事の内容も掴みきれていない時期でした。そんな時に長崎工場への転勤を命じられたんですね。本社からの転勤は、私の他にもう1人。同じ埼玉県出身ですが、彼も長崎に永住することになりました。最初は、長崎事業所は7名からのスタートでしたが、今は240名ほどの規模まで成長できました。厳しい時代もありましたが、おかげさまで長崎県、そして東彼杵町の人たちに支えられてここまで乗り越えてこれました。社員には東彼杵町、川棚町、大村市の方が多いですね」
長崎で家庭を築いた埼玉県民は、
いつのまにか長崎好きの長崎県民へ
仕事のためとはいえ、慣れない土地での暮らし。生活の戸惑いはあった。
「こっちにきた当時は、インターネットがそこまで普及していませんでした。川棚町にあったTSUTAYAがこちらへ来てすぐに移転してしまい、本を探したりレンタルDVDを借りに行く時には佐世保まで行ってました。行って、探して帰るのに3時間。とんでもないところにきたなと(笑)。ですが、あとは住めば都で、特に生活に困ることはありませんでした。そして、それから何年かしたらAmazonで何でも買えるようになった。そうなると、逆に自然が豊かな長崎の方が住みやすく感じたのです」
気がつくと、長崎の地に魅了されていた。そこで、生まれ育った埼玉に戻るのではなく、この地に残ることを決意。家を建て、住民票や本籍も移した。
「本当に住みよく、穏やかに暮らせる場所だと思います。何より、海や山に囲まれた生活というのがたまりません。私も妻も、海や山など自然のなかで過ごす時間が好きで、九十九島や西海まで出掛けてはカヤックキャンプをしたり、周辺の山でトレッキングをしたり。歩いて行ける距離にある大村湾はとても穏やかで、SUPや素潜りも手軽に楽しめます」
一方で、東彼杵町のアクセスの良さにも惹かれた。
「高速のICがあり、福岡や長崎市内へのアクセスが良く、空港までも30分もかかりません。また、温泉のある川棚町や佐賀県嬉野市、隣町の大村市なども車で15分圏内なので、買い物などにも困りません。こんな場所、なかなかないですよね。妻も地元の福岡に帰りたいとはあまり思わないようです(笑)」
パートナーの結子さんは福岡県出身。言い争っても夫婦漫談のように聞こえるほどに仲睦まじい2人だが、出会いは画策されたものだったらしい。
「妻とは佐世保市で出会いました。福岡出身だった彼女は、当時ハウステンボスで働いており、彼女のボスと私の父が当時一緒のエリアに住んでいて」
「そこからですね(笑)。2010年にこっちへきて、2011年に結婚しました」
環境の異なる長崎県に転勤し、その地で結婚して世帯を持った。公私ともに、軌道に乗るまでどれほどの時間を要したのだろうか。
「8年かかりました。会社の節目となるような大きな出来事だったので、安定路線になるまでにはどうしても時間がかかりました。それまでは、ずっと働き詰めです。そして、長崎工場は東彼杵町の工業団地内に4つの工場を抱えているのですが、この度同敷地内に当社の命運をかけた5つめとなる工場を新設しました。これにより、今まで設備投資ができなかった航空機の組み立てが実現できることとなったのです。設備もどんどん入ってくることになるので、また頑張らないといけないですね(笑)」
つねに新しく、面白く。
新事業『URANIWA』の提案
東彼杵町という都会とは異なる穏やかな環境にいながらも、忙殺された日々を送っている小林さん。本業に加えて、2021年から地域を巻き込んで活性化を促す新プロジェクト『URANIWA』をスタートさせた。その、パワーの源はどこから湧いてくるのだろうか。
「パワーは尽きかけています(笑)。毎日時間に追われています。仕事柄、つねに新しいものを追い求める癖がついていて。それが、現在では新事業のURANIWAの方に視点が向かい、次から次へ構想が湧いてきます。忙しいけど、楽しい。新しい物好きなのかなと。わからなくても、とにかくまずやってみようから始まるんですよね。でも、”妻の”許可を得ないでやるので、怒られることは多いのですが……」
結子「鶏の卵を自分の部屋で勝手に孵化させていたんですよ。最近、何か鳴いてるなと思ったら、『生まれた』って(笑)」
一同笑。
「メインとなる本業の仕事はマストで、現在はプラスαとして事業を進めています。事業が独り立ちするには3~5年はかかる見込み。現時点で集まってくれる人たちは、利益が目的ではなく将来を一緒に考えて、共感してくれる方たちばかり。朝から田んぼの草刈りを無償で手伝ってくれたり、申し訳ない気持ちがあります。なので、最終的なURANIWAという事業が一本立ちできるような形で、地域の人たちと繋がっていくという理想に向かって活動を続けていくつもりです」
理想を思い描くことは誰にでもできる。それを実現するために実行するまで行く人間はなかなかいない。はじめの一歩を踏み出す、その行動力が素敵だ。新事業URANIWAの詳しい事業内容に関しては、くじらの髭「こと」記事をご覧いただきたい。最後に、ひとつ質問をしてみた。今後、埼玉に戻るつもりはあるのだろうか。
「ないですね、即答ですが(笑)。やってみたいこともたくさんあるので、これからどんどんURANIWA(事業)が増えると思うし、同時にホームページやSNSでも拡散していきます。URANIWAの庭のデザインが、いろんなところに広がって、様々な人が集まる広場のようになると面白いですね。わたしたちにできることは限られていますが、さまざまな地域の問題を抱えている中で、町だけの悩みと考えるのではなく、企業としても何か提案をし、地域とともに良い循環を創りだしていきたい。例えば、町おこしなど県や地域を盛り上げるような事業や活動を通して、まちの魅力がより高まる”新しいまちづくり”に積極的に参加したいです。また、ワールドワイドな視点を持って、企業として何か貢献できることがないか。社員のアイデアも取り入れながら、社員一丸となってこれからの活動を増やしていけたらと思っています。すでに本籍も移してあることですし、長崎県民として胸を張って活動していきますよ(笑)」
「みせ」についての詳細は以下の記事をご覧ください。