美味しさと楽しさを共有してほしい。佐世保発・新世代拉麺店『らーめん砦/研究所』

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佐世保の旬食材をふんだんに使った
誰にも真似できない創作らーめん

「佐世保に来たら何食べるべき?」と佐世保人に問えば、彼らは目を輝かせてあれこれと答えてくれる。佐世保バーガー、レモンステーキなどなど。そんな佐世保グルメの大定番と並ぶことも多いのが『らーめん砦』だ。

地元民が自信を持っておすすめするらーめん店に高確率でピックアップされるそのお店は、当時26歳の川尻龍二さんの手によってオープン。

現在、全国にフランチャイズ展開も見せる佐世保発の新世代拉麺店はどのようにして誕生したのだろうか。そのルーツをたどる。

本当は進むはずではなかった「らーめんの道」

両親はかつて中華料理店『龍ちゃん亭』を経営していた。物心ついたときから、龍二さんにとってらーめん店は身近なものだっただろう。

豚骨スープや油の濃厚なにおい、両親の威勢のいい掛け声や食材が香ばしく焼ける音、がちゃがちゃと食器がぶつかり合うあわただしさ。店を開けていない日には、両親の喧嘩を目の当たりにしたこともあったかもしれない。

毎日のように身を粉にして働く両親の背中を見て、らーめん店にはつきたくないと強く感じていた。やるなら絶対、楽しいほうがいい。

気持ちの赴くまま、小学から高校時代まで野球に関わってきた龍二さんは、卒業後さまざまな職種に就く。整体師、ホスト、製造業、はたまた裏仕事。なんとか生活していけるだけの給料はもらえたが、いまひとつやり甲斐を感じられずにいた。久しぶりの同級生たちとの集まりでは、仕事の話題ばかりで肩身の狭い思いだった。

その後就いた、居酒屋のホール接客の仕事。野球で鍛えられた体力と持ち前の愛嬌で、お客さんから次第に顔を覚えて声を掛けられるようになるなど徐々に楽しさを見出していく。

そんなタイミングで舞い込んだ、レストランバーのバーテンダーへのお誘い。これは楽しそう、迷わず飛び込もうとしたその矢先に、両親の店の経営が大きく傾いてしまった。

家族を養うため。特に、まだ中学生の弟はなんとかして高校を卒業させてやりたい。それならばと龍二さんは立ち上がった。自己破産してお店を閉めたあと、新たな開業資金を調達。らーめん作りのノウハウや経験も一切ないまま、「らーめん MARU龍」をオープンした。

これが、あとから振り返るととても辛く険しかった龍二さんの「らーめん道」の入口である。

独学でラーメンを学び、試作、試作、また試作

20年間中華料理店を営んできた父親の経験を活かし、親子二人三脚で「らーめん MARU龍」の味を作り出す…のかと思いきや、そうはしなかった。一度店を失敗してしまった父親のらーめんの味を信用できなかったからである。

己の味覚のみでやるしかない。「一切手を出すな」と父親に告げ、まずは本を読み漁り独学でらーめん作りを始めた。

しかし、やはり現実は甘くなかった。新店オープンと聞きつけ訪れるらーめん好きの舌は、小手先で作った龍二さんの味をことごとく酷評した。少しだけしか箸をつけられずテーブルに放置されたどんぶりを見て敗北を痛感したのが、らーめん作りのターニングポイントだったと振り返る。

思うようにらーめんの腕が上達しないことや、父親とのすれ違いや小さな衝突が重なり、思わず壁を殴るほどの苛立ちを覚えることもあった。しかしここで諦めてはいけない。

「明日にはもっと美味しいらーめんを作る」。その一心で、お客さんからのアドバイスや仕入れた知識を一通り試し、味の精度を高めていった。

川尻「とにかく必死やった。本をひたすら読んで、一晩寝ずに仕込みやったり。二階が住居なんやけど、一回ボヤ騒ぎ起こしたことがあって親父にめちゃくちゃ叱られた」

「らーめん以外で頑張ってたのは接客。『また来るね!』って目をキラキラさせてお客さんが言ってくれたとき、俺の接客が相手の心に届いたんだなって嬉しくなった。以前働いた居酒屋ホールでの仕事が活かされたのかもしれない」

こうして徐々に口コミが広がっていき、グルメサイトのランキングで1位を獲得。努力が報われた瞬間だった。

震災の影響から生き残るため
開発した貝白湯スープが新たな活路に

コツをつかみ、時間や費用などにも余裕が出てきた頃だった。龍二さんの夜遊びを見かねた父親から行動を咎められ、ふたたび大喧嘩に発展してしまう。

「らーめん屋なんか辞めてやる」。とうとう龍二さんの頭にこんな思いがよぎった。しかし、怒りで頭がすっかり煮えたぎってしまっていた彼は、その後一気に現実に引き戻されることになる。

2011年3月11日、東日本大震災が発生。日本中が悲しみに包まれるなか龍二さんが観たのは、被災地の悲惨なようすを映すニュースで流れた、とあるラーメン店店主の悲痛な声だった。

「豚骨らーめん屋の店主が、品物が入ってこんけん『今日は店開けられない。店じまいですよ』って言ってるのを見て、あれ、おいも豚骨らーめんしかしよらんね、って。豚骨が入ってこないとおいは仕事ができないんだ。仕事を取り上げられる。このままじゃやばい、って」

震災での物流ストップにより店が閉店を余儀なくされてしまう未来が、自分事として重くのしかかってきた。家計を担っていた両親の店の閉店。ふたたび家族が放り出されたあの瞬間に戻ってしまうのはごめんだった。

「じゃあ、豚ば使わんで出来る、違うらーめんば作らんと生き残れない。震災が、貝白湯スープをつくるきっかけだった」

物流に頼らないらーめん作りは、地元の食材がカギを握っていた。長崎・佐世保は海産物の宝庫。なかでも龍二さんが注目したのが、濃厚な出汁が取れる貝だった。さまざまな食材を使い、半年間ずっと貝白湯スープづくりと向き合ってきた。

市役所から紹介された針尾の特産「赤マテ貝」も使用し、ようやく理想の形に近づいてきたが、いまひとつ足りない。やはり九州人の血がなせる技なのか、豚骨スープのような白濁した色合いが恋しくなったのだ。

「牛乳とか入れてみたけどなんか安っぽかねって。そこで、畑のお肉。タンパク質である大豆を入れてみることで大成功!」

“貝白湯(かいぱいたん)”の名前は龍二さんがつけた。前例のない、初の試み。数えきれないほどの失敗を繰り返したぶん心は激しく躍った。これで、さらに前へ進める。

龍二さんが開業した「らーめん MARU龍」の家業再建により、無事に高校を卒業できた弟さんが20歳を迎えた頃。龍二さんは店の看板を彼に託した。

そして、古くから市民の台所として歴史を刻んできた「佐世保朝市」のある万津町に『らーめん砦』を構えることになったのである。

自らが最後の砦として、両親や「らーめん MARU龍」を運営する弟を見守っていく。がんばれ、俺もがんばるし、絶対に崩れんから。そんな思いが込められていた。

全国へフランチャイズ展開
直営店の「らーめん砦 研究所」もオープン

『らーめん砦』オープンを皮切りに、貝白湯スープの評判は瞬く間にらーめん好きのあいだに広がっていった。市内に限らず県外からの観光客、立地によるものか外国人のお客さんも多数訪れ、それぞれに「推しらーめん」が語れるほどになっていた。

スープはもちろん、地元の旬の食材をふんだんに盛り込んだ龍二さんの独創的ならーめんはそのユーモアあふれるビジュアルやネーミングからして魅力的だ。

とうとうカレーも作ってしまった。絶対に美味いと期待させるなにかがある

オープン2年目には、グルメサイトで1位に輝いた「らーめんMARU龍」を追い越した。さらに、『らーめん砦』の魅力をより伝えたいと、フランチャイズやプロデュース依頼の話も次々と舞い込んでくるようになった。龍二さんが選ぶ基準は、やはり「楽しいか、楽しくないか」だった。

「最初は、俺しか作れんからかっこいいと思ってたけど、めっちゃ口説かれまくっちゃって、ちょっといいなと思いはじめたわけ。一番最初は、常連さんからの希望で佐々に。ただ、全部のつくりかたを教えてしまうと全部の技術を盗まれるよね。そしたらもう俺じゃなくてもできる。俺じゃないとかっこよくないやん! なので、タレとか作り始めた。

「28、9歳ぐらいかな。そのあたりからフランチャイズの勉強をはじめたちなみに、俺死んだら全部の店潰れる。(スープやたれのレシピは)俺しか知らんけん」

らーめん砦DNAは九州を越えて関東、関西にまで進出。数々の賞を総なめに

「貝白湯をきっかけに、豚骨とか鶏ガラとか使わんでらーめんを作ることがテーマになってきた。作るのは本当に楽しい。だからこの研究所を作った」

2019年にオープンした直営店『らーめん砦 研究所』は、新たならーめんを生み出す新拠点となった。らーめん作りの原動力は「自分が感じた楽しさ、美味しさをお客さんと共有したい」。商売よりもまずそこが優先だという。

ここからさらに新店舗を増やし、いつかは日本を飛び出し世界で勝負できればと龍二さんは語る。

佐世保発の新世代拉麺店のさらなる歩みを、これからも見届けていきたい。

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店 名
ラーメン砦研究所
所在地

長崎県佐世保市早岐1丁目5Google Map

営業時間
11:00〜14:00
18:00〜21:00

※変更になる場合がございます。くわしくはお問い合わせください。

休業日
日曜日

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090-6776-3982