ワクワクする未来を見せて人を集める『トミーズ 代表・陣野真理さん』

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いとなみ研究室がおくる「ひとこと講座 -公開取材とローカル編集-」の公開取材企画・第5回目のゲストは『トミーズ』と『BASE cafe』のオーナーであり、『ISAHAYAグルメフェスティバル』や、『ISAHAYA‘‘頂’’プロジェクト』、『GOO GOO MARCHE』など、多数の地域活性化プロジェクトで代表を務める陣野真理(じんのしんり)さん。

インタビュアーの冗談も爽やかな笑顔で対応してみせるベビーフェイスが特徴の37歳。飲食店2店舗を経営しながら数多くの事業を同時進行で進める陣野さんだが、その語り口は飄々としていて、とても充実した表情している。老舗ハンバーガーショップと地域の交流拠点であるカフェ、そして地域活性化事業。これらを運営するパワーの源を陣野さんの生い立ちから探ってみた。

生い立ち
トミーズ

今も諫早市民のソウルフードとして愛される『トミーズ』が創業したのは1981年のこと。その4年後となる1985年に陣野さんは「真理」という、その後の将来を案ずるかのような立派な名前を授かり誕生した。由来は日本人初のノーベル賞受賞者で物理学者・湯川秀樹の「新しい真理の発見のときは常に少数派である。それが正しければ多数派になる」から。母親が大好きだというこの言葉。周りの批判を気にすることなく、自分が信じた道を歩んでほしいとの思いで名付けられた。

諫早で生まれ育ち、高校も自宅から近い諫早高校へ進学をした陣野さんだったが、ここで人生でも指折りの辛い時期を過ごされたと振り返る。

陣野「高校はテニス部のキャプテンをさせていただいてました。でも、イップスみたいな感じでボールを打とうとするとアウトするイメージしか出なくて。キャプテンなのに控えみたいな時期を過ごしてて」

しかし、卒業後に父親から「3年間テニスが上手だった人よりも、上手くいかないのに3年間続けたお前の方がかっこいい」そう言って認めてもらった。その時の言葉はネガティブなことを自分なりにポジティブに捉えて行動できるようになった一つのきっかけである、と顔を少しほころばせた。

運命を変えた一本の電話とお告げ

小学生のころの将来の夢は、「トミーズの店長」と「有名人」。高校生なると、建築士になることやバンド活動に興味を持ち、都会への憧れもあって高校卒業後は浪人を経て、九州大学芸術工学部に入学。青春真っ盛り。大学時代はバンド活動に明け暮れ、お坊さんのアルバイトという後の人生に影響を及ぼす貴重な経験もした。そして、大学時代の大きな出来事となったのが、学園祭のメインイベントの一つである前夜祭でリーダーを務めたことだ。

陣野「芸術工学部の場合、120人ぐらいのメンバーで図面引いて足場とか音響とか照明を全部自分たちで作り上げるんですよ。学校で学んだことをそこでアウトプットとして披露する。それをまとめるリーダーをしてました。そのときに先輩から“モノの考え方”とか“デザインの仕方”を学ぶ経験もできたのですごく充実していて楽しかったですね」

中学高校と部活動でキャプテンをしていた陣野さんも、この前夜祭を機にリーダー像が大きく変化したという。しかし、熱をいれて取り組んでいた前夜祭が終わってしまい、その反動で燃え尽き症候群を発症。そして、悩んでいるうちに就職活動をしないまま卒業を迎えてしまった。

陣野「お坊さんでいろんな人の生活を目にする体験をしてて、生死観みたいなのをすごく考えるようになっちゃって。仕事って何とか、生きるって何とか。例えばすごいお屋敷に住んでるのに、寝たきりのおじいちゃん一人で住んでるお宅があったり。一方でそんなに裕福じゃないのに家族みんなで楽しそうに住んでるお宅があったり。そんな光景を見たときに、”仕事の成功=人生の成功”とはなんか違うなとその時に感じたのが、燃え尽き症候群と相まって就職活動を全くしなかったんですよ」

同級生は就職をして働いている中、陣野さんはフリーターとなり学生時代よりも時間を持て余す毎日。そんなとき、お坊さんアルバイトの経験から、かねてより行きたかったお遍路へ行こうと思い立つ。

お遍路とは、四国の弘法大師・空海の霊場八十八箇所を巡礼する約1400㎞の旅。陣野さんは1日およそ40㎞、40日かけて巡り、さまざまな人に出会った。

末期がんで身寄りもなく途中で死にたいという方。息子を亡くし、その供養のために回っている方。

別の場所で別の人にお世話になったからと、たくさんのお接待も受けた。

陣野「途中、遺書書きました。何を間違ったか8月に行ったんですよ。その年も熱中症でお遍路中に2人が亡くなってるんです。高知県の足摺岬に向けて、ずっと日陰がない海岸を120kmぐらい歩くところがあって。水がなくなったら、岩からしみでてる雨水とかを飲まないと死んじゃうから飲むみたいな。そんな状況で、バックパッカーみたいな感じでテントで寝泊まりしながら1周しましたね」

そんなとき母親から1本の電話がかかってきた。「トミーズを閉めようと思う」そう告げられたとき、なぜ今の自分がここに立っていられるのか気づかされた。

陣野「高校、大学と何不自由なく卒業させてもらって、浪人までさせてもらって。両親が諫早で商売をして、そこにお客さんがずっと来てくれることで、俺は今まで生活できてたなって」

両親のありがたみ、お店のありがたみを再認識し、実家に帰るべきだと感じたものの、当時は抵抗感が拭いきれず、今の自分が何の役に立てるのかというもどかしさと葛藤しながらしばらく歩いていた。そこで摩訶不思議な現象が陣野さんの元にやってきた。

陣野「寝ているときにお告げがあって、この言葉を夢の中で言われたんですよ」

『今までの自分に縛られることなく、今までの自分を生かす生き方をしなさい』

この体験を機に陣野さんさんは思い悩んでいたことから吹っ切れ、お遍路を終えたその足でそのまま実家へ戻ることを決意。お店の再建だけでなく、大学での経験を糧に地元のために何かやることが、今までの自分を活かすことになるのではないか、そう考えた。

熱い氷も夏になれば溶ける

そうして実家に帰ってきた陣野さんだったが、お店は倒産寸前。すぐに怒涛の日々が始まった。365日中360日、10時間以上働いては閉店後はポスティングに行く毎日。死に物狂いで働いた。それでも給料は10万円を切るという、これまでとは打って変わっての過酷な毎日だったが、意外にも陣野さんは満たされていた。どんなに給料が低くても、どんなに働いている時間が長くても、フリーター時代には得られなかった積み上がっている感覚が快感で、楽しくて仕方なかった。そんな過酷ながらも充実した生活が2年ほど続いたころ、お店はようやく軌道に乗り始め、忘れかけていたもう1つの目的を思い出させる、ある光景を目にする。

陣野「昼間にコンビニの駐車場で親子連れがおにぎりを食べてたんですね。それが良いとか悪いとかではなくて、360日働いている俺はめっちゃ悔しかったんですよね。諫早っていい食材いっぱいあるし、いいお店いっぱいあるのに、それが伝えられてないなっていう悔しさがものすごくあって。俺はまずこれに取り組まなきゃいけないなと感じて、『ISAHAYAグルメフェスティバル』っていうのを始めました」

BASE cafe

2014年に始まり、最終年度となった2019年には100店舗、3万5千人を集客した諫早最大級の”食”の祭典。地元の人が地元の良さを肌で感じられていないことに危機感を覚え、地元の食材を使った地元の飲食店を集めて25歳の時に立ち上げた。

それからは、街の活性化プロジェクト代表として15~20ものイベントを企画・運営しながら2019年10月には今回の「ひとこと講座」でインタビュー会場になっている『BASE cafe』をオープン。街の拠点としての“基地”という意味合いと、カフェのコンセプト「体を“基礎”から整える」から名づけられた。オープン時期が新型コロナの時期と重なったこともあり、かなり苦しい状況に立たされた反面、得るものも大きかったという。

陣野「このときに、自分の商売だけでやっていくとコロナに限らず、今後、地方っていうのは生き残ってはやっていけないなっていうのを強く感じて。色んな人を巻きこみながら、それぞれの魅力とかそれぞれの強みを活かしながら、新しい取り組みを仕掛けるような活動に切り替えたいと思いました」

1日限りのイベントは効果が限定的だと感じ、『ISAHAYAグルメフェスティバル』を現在は『ISAHAYA“頂”プロジェクト』にカタチを変えて取り組んでいる。諫早の“食”という最大の魅力を最大限に輝かせようと模索を続ける陣野さんの旅は6合目といったところだろうか。まだまだ力強い足取りで、4月にはパスタの修行に出るという。次はどんなワクワクを見せてくれるのか、期待を大にして続報を待つことにしよう。

公開取材の様子はこちらから。

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