仲間との約束を胸に再出発の茶路(ちゃろ) 京都和束町のサブスク茶園や東彼杵町の特別町民制度のアジテーター おぶぶ茶苑 松本靖治さん

取材/編集

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東彼杵町の特別町民制度を提案したおじさん

京都和束町のサブスク茶園、東彼杵町の特別町民制度などお茶の町の新たな仕組みを提案している松本靖治さん。我が町、東彼杵町では2022年の年の暮れ、革新的な動き「特別町民制度」を東彼杵町役場、産業振興課と松本さんが動き出し、すでに1400名の登録に至っている。そんな「特別町民制度」を取り入れた松本さんは一体どんな「ひと」なのだろうか。コロナ禍の中、京都から移住して来られて初めてお会いした時にはすでに東彼杵町のおっさん感が否めないお人柄でありながら、当時から話しているだけで只者ではないことを感じていたので、改めてインタビューを行った。

町の仕組みのアジテーターの幼少期

松本さん(以下、松本): 奈良県の大和郡山市というところですね。金魚の町です。大和郡山市には、郡山城という城があり、豊臣秀吉の弟の秀長が居城していました。また「生類憐みの令」を施行した徳川綱吉の家老に柳沢吉保という人がいて、柳沢吉保も晩年、江戸から郡山城に移り、城下のため池で金魚の養殖を始め、今も金魚で有名な町です。毎年、大和郡山市では「全国金魚すくい選手権」も開催されています。

東彼杵町もくじらの捕鯨で得た資金で、深澤義太夫勝清が千綿や大村にため池を作ったことで現在の東彼杵町の成り立ちに至るので、松本さんの大和郡山市と勝手に繋がっているような感覚が湧きつつも、そんな町で育った松本さんはどんな少年だったのだろうかと、さらに興味津々に話は始まった。

東彼杵町の集団茶園と大村湾をドローン撮影(当時は、平地が少なく水害が多かった東彼杵町。現在は、ため池のおかげで水害が減り、農業が盛んな町になった。茶畑は盆地に多いが、東彼杵町は、平地が少なく気温の高低差が生まれることから、このような茶畑が海と広がる珍しい景色が広がる)

松本:小さい頃は、さすがに町おこしとかは考えたことがなかったですね〜(笑)自分は外でばかり遊んでましたね。当時、世に出たファミコンを親に買ってもらえなかったんですよね。その代わりにMSXというパソコンを買ってもらって、小学校の高学年からプログラミングも本を片手に始めました。母は専業主婦で、父はタカラブネという、シュークリームで有名なお菓子メーカーのお菓子製造ラインの設計施工をするエンジニアでした。

森:小中学生で熱中したことはあるんですか?

松本:中学では陸上をやっていましたね、短距離です。キャプテンでした。高校は進学校で柔道に入りました。でも高1の夏休み直前に盲腸になってしまい、夏休み明けの試合で肩を脱臼し、その後、黒帯まで取りましたが、柔道はすぐやめてしまって。その後の高校時代は、くすぶってましたね。

小学生でプログラムを打ち、中学高校とスポーツ少年で順風満帆に育ってきた松本さん。高校卒業前に起こったことが、今も自分の選択に影響を与えているという。その出来事は現在の松本さんにどのように影響しているのか。

人生の大きな転機…

松本:高校3年生のときにバイクで事故を起こしたんです。同乗していた一人は亡くなり、もう一人は頭蓋骨骨折でした。僕も傷だらけでしたが、生き延びて。その事故は、その後の人生の選択に大きな影響を今も与えています。高校は退学になると思っていました。でも1か月の停学だけでした。執行猶予で少年院にも行きませんでした。でも、もう地元にいられる気がしませんでした。とにかく遠くの大学に行きたいと思い、北海道か沖縄の大学に行こうと思って勉強しました。

松本:大学卒業後、社会人になって数年後、退行催眠に出会いました。

森:退行催眠?とは何でしょか?

松本:今の自分より若い頃や前世にまでさかのぼる(退行する)セラピーです。そのセラピー中にバイク事故の時に亡くなった友達が出て来て、その友達が言ったのです。『お前に俺の身体の半分をやる』と。僕の身体はニコイチなんですよ。

大学進学は、松本さんにとって、合法的な現実逃避だったたそう。過去は変えられないとはわかっていてもずっと松本さんの心の中で思考の反すうが起きる。そんな中に受けた前世療法。自分ができることは、亡くなった友人の分まで生きる、生き尽くすことが償うことだと思うようになったそう。

松本:贖うことはできない、亡くなった友達が戻ってくることはないですからね。お墓参りするのがいいのか迷い、高校、大学時代はずっと行っていました。でも今は行ってないですね。お墓には、友達がいない気がする感じがして。でもどうしたら贖うことができるのかな、どう生きたらいいのかなと常に考えています。自分や家族のことももちろん大事だけど、もっと広い意味でのみんなの事も大事だな、それができないなら生きている意味ない気がして。

森:今はセラピーをしてもらったことで、変わったんですね。

松本:ずっと一緒にいるんだなと確信できましたね。でも大学に入ってからも警察沙汰もあったし、警察に呼び出された父が朝一に実家から札幌まで来てくれたこともありました。結局、まともな人間じゃないんでしょうね。

森:話は戻るんですが、北海道大学でしたよね?

松本:とにかく脱出するためには大学に行くしかない、しかもできるだけ遠くの大学にと思ったし、合法的な現実逃避だったんでしょうね。

森:とにかく遠くに行きたかったんですね。大学進学後はどんな学生生活を送っていたんですか?

松本:楽しかったです。飲んだくれです。(笑) 大学の寮に住んでいましたね。2年間留年しました。大学の時は応援団に入っていました。誘われて入って4年間熱中しました。今の嫁さんとは国立大の交流でつながりました。文通でつながりました。手紙はバイク事故で亡くなった友達のご両親に10年間ほぼ毎月書いていたので、文通が苦にならなかったんでしょうね。当時はメールとか携帯とかもなかったので。

学生時代のバイク事故とともに生きながらも、その事故がきっかけで手紙を書くことが当たり前のようになった松本さん。現在の明るく優しい松本さんを作り出したのは、この丁寧で真摯な姿勢から生まれたのかもしれない。

大学卒業後の経験

森:大学卒業後はどちらに就職されたんですか?

松本:大学の専攻は、土木工学科でした。でも全然勉強していなかったので先生のコネで就職しました。横浜の海洋土木の建設会社で、4年ぐらい在籍しました。そこでは、埋め立てて島をつくったり、防波堤を作ったりする建設会社で、工期と設計図どおりに建設現場を指揮していました。測量をいっぱいしましたね。

森:そこでの印象的な出来事は何ですか?

松本:モノづくりの楽しさです。当時はコンクリートで形を作っていく、何もないところに橋の橋台をかけていくといったことが楽しかったです。建設現場では、コンクリート打設というの作業は一つのお祭りのようなものでした。コンクリートを打つためには、その中に仕込む鉄筋を組み、型枠を作り、それらが完璧に仕上がって、天候を見ながら、コンクリート打設日を決める。始めは流れるように柔らかいコンクリートですが、数時間で固まってきます。夏場は特に固まるのが早い。なのでどんどん段取り良く打ってかないとだめなんです。しかも雨降りだと、仕上がりが格段に悪くなる。そのために綿密に計画を立てて、一気に打つんです。コンクリートを打ち終わったら、1週間ぐらいは、そっとしておきます。そして、一週間後、型枠を外して出来上がりを見るんですが、ピカピカの表面を見る時は楽しかったな~。型枠を外したばかりのコンクリートは、まだ硬化している最中なので、暖かいんですよ。冬だったら湯気が出るくらい。

森:大成建設のキャッチコピーの「地図に残る仕事」みたいな感覚で、何も無いところにモノ作るという感覚が楽しそうですね〜

松本:現場の職人の方たちには普段会えないタイプの方たちがほとんどで、指がないとか、片目がないとかいろんな人たちがいて、そんな人たちと仲良くなるのがまた、楽しいんですよ

森:松本さん好奇心旺盛ですね(笑)まだお茶は関係ないんですか?次のお仕事は何だったんですか?

松本:当時、小泉内閣の頃で、建設不況でした。どんどん下請けの建設会社が潰れていってる状態で。そんな時に弟から「お茶の仕事は面白いよ」と誘われました。そして、弟に『金持ち父さん貧乏父さん』という本を貸してくれました。その本を読んで、今の自分には金融リテラシーがないことを痛感しました。金融リテラシーを身につけるために不動産投資会社に入ろうと決意しました。その当時、暇な現場に配属されていたんですよ。鹿島港という茨城の砂浜を掘りぬいて作った港で、浚渫(しゅんせつ:砂を掘る)業務を担当していました。砂浜を掘りぬいて作った港だから、砂で埋まってゆくんですよ。だから永遠に浚渫する(砂を掘る)仕事があったんですよ。鹿島は、太平洋に面しているので、波が高くてすごくいいんですよね。浚渫の仕事は、波が高いとすぐ休みになるんですよ。だから休みの日にはサーフィンに行って、仕事の合間に船の上で宅建の勉強をして。

森:宅建取れたんですか?

松本:それが、取れたんですわ〜

森:宅建を取れたから、それを生かす会社に行かれたんですか?

松本:不動産投資会社に入ろうと思って、転職先を探しました。当時は、バブル崩壊後のハゲタカファンドが暗躍している頃でした。バブルの後始末のために日本整理回収機構が設立されたことなど有名ですよね。不良債権の処理が進まないから、経済が停滞しているということで、債権回収会社(サービサー)が民間にも認可された頃でした。債権回収会社とは、銀行などが貸し付けた債権(借金)のうち、正常に返済されなくなった(焦げ付いた)債権をバルクで(まとめて)債権回収会社に譲渡し、その後は債権回収会社が回収する。要するに借金取りの会社ですよ。そして僕の就職先は、国内資本の不動産投資会社が日本で初めて設立した債権回収会社だったのです。

森:前職とガラッと変わりましたね。

松本:転職した時には、すでに自分で起業することを念頭に考えて、起業前に金融リテラシーを身に着けたいと思っていました。自分が起業して、もし失敗したとしても、どうしたら他の人に迷惑をかけないでいられるか?そんな起業の方法があるのかなと考えていました。

そして分かったのは、金を借りなければ、ろうそくの灯が消えるようにいつでもやめれるということに気が付きました。会社が倒産するのは、お金を借りてそれが返せなくなるからであって、もし借金がなければ、倒産もないんですよね。

その事に気がついて、自分でも起業できる自信が生まれました。30歳までに起業したいという気持ちでいたんですが、29歳の時に『京都おぶぶ茶苑』を始めたんです。2004年の3月に週末起業で始めて、半年後の9月に債権回収会社を辞めました。あと余談ですが、債権回収会社に転職してまもなくの頃に株式投資も始めました。やっていたのは、IPOという新規公開の買い付けでした。ちょうどその頃、ネット証券会社が増えていて、IPO株も小口化され始めた頃でした。元手は20万円でしたが1年半で1000万円になってましたね。

森:IPOとは、どんなものなんでしょうか?

松本:IPOとは、新規公開株の買付のことで、会社が大きくなると、株式市場に上場することができます。その株式上場の前後で、未公開株が公開株になるのですが、未公開株の一部が投資家に公募(配分)されるんですよね。そして株が上場する(公開される)と、初値が付いて、そこから株価の変動が始まります。僕のやっていたIPO投資は、公募価格より、初値が高ければ、その場で売るという取引でした。2003年あたりは、上場する会社の90%以上で、初値が公募価格より高かったのです。つまり配分されれば(公募で未公開株を取得できれば)、90%以上で儲かるという、確率が抜群にいい宝くじを買うような投資でした。

森:おぶぶ茶苑の経営よりも株のほうをやられたんですか?

松本:株のほうは時間かからなかいんですよ。IPO投資しかやってなかったから、公募に申し込み、初値で売るだけですから。当時は、電話で証券会社に注文を入れていたので、公募申込みの電話と、初値がついたら売りの電話をするという2本の電話で、数十万〜百万くらい利益が出るのです。ボロ儲けですよ。

でも「京都おぶぶ茶苑」の方は、そんなには甘くない。IPOをやってると集中できないんですよ。片方はボロ儲けなのに、もう片方は全然儲からない。なので預金が1000万を超えた時点でIPOはやめました。結局のところ、儲かるけど、つまらないんですよね。

この流れからだと、そもそもなぜ、お茶だったのか。お茶をとてつもなく愛しているというようには、今のところあまり見えてこないが…

松本さんがお茶に取り組む理由は、お茶が好きな人!?

松本:僕がお茶の世界に飛び込んだのは、弟がお茶をやり始めたという理由ですね。弟がお茶をやらなかったからやってないですね。なので、京都おぶぶ茶苑も通販サイトを作って、僕の業務は完了のつもりでした。脱サラして、1年間は腕試しさせてもらおうと思っていたんですよね、はじめは。始めは、弟たちのお茶の農事組合法人の通販サイトを作っていました。しかし、その農事組合法人自体は、2004年10月ぐらいにはほぼ崩壊しかけて、そして2005年の2月に崩壊しました。おぶぶはその農事組合法人の最後の灯で作ったみたいな感じですよね、今考えると。そんな状態であることも知らないまま、始めちゃった感じでした。結局、その農事組合法人からスピンアウトする形で、弟の親友と僕の二人で再スタートすることになりました。

その時、辞めてしまうこともできましたが、結果がまだたいしてでてないまま辞めるのはもったいないなと思い、そのまま続けることにしました。ゼロどころかマイナスのスタートですよね。事務所もないし、軽トラもないし、農機具も茶工場もなくて、もちろん信用もないし、あるのは誰も作らないから借りることができた厳しい条件の茶畑が1.8ヘクタールあるだけ、という再スタートでした。それから1年くらいは会社の事務所もありませんでした。

1年後にようやく、地元の和菓子屋さんの工場2階にあった麻雀ルームを間借りして事務所にすることができました。なので当時の僕のデスクは、雀卓でした。笑

森:最初のきっかけはお茶が好きという感じではなくて、そういう偶然の出会いがあってお茶の世界に飛び込んだんですね。

松本:まさしく。もちろん僕もお茶が好きです。正確には、お茶を含む飲み物(アルコール飲料もノンアルコールも)が好きですね。お茶業界には、お茶の仙人みたいな人やお茶オタクの方がたくさんおられます。そんな方を前すると、この人は僕なんかよりよっぽどお茶が好きなんだろうなと。いくら僕がお茶を好きになったとしてもこの人には敵わないだろうなと。

なので、最近は「自分は、お茶が好きな人が好き」というふうに言ってます。

森:人が好きなんですね。くじらの髭やっていますけど私もお茶が好きな人が好きですね。そこからはずっと『京都おぶぶ茶苑』の運営ですか?

松本:そこから5年くらい暗中模索で、なかなかうまくいかず、あがきまくって最終的に2008年末に茶畑オーナー制度を開始しました。今で言うサブスクですね。

松本:ご存じの方もおられると思いますが、農家のおかれている環境はかなり過酷です。全部のリスクを農家が背負う仕組みになっている。

これはお茶だけに限った話ではありません。お茶の場合でも同じで植える、育てる、収穫する、製茶する。ここまでやってもまだ一円も売上げにはなりません。そうやってできたものを売ってやっとはじめて、お金になる。この植える〜製茶するまでの期間にもリスクはたくさんあります。木が枯れたり、新芽が虫や霜にやられたり。また豊作すぎたら、価格は安くなるし。

取引先の方からぜひオーナー制度をやってみたらというアドバイスをもらい、茶畑オーナー制度を仕組化することにしました。生産者と消費者が一緒にリスクを取っていくという、コミュニティが支える農業。こういう農業の形態をCSA(コミュニティー・サポーテッド・アグリカルチャー)と言うそうです。

農産物ができる前から、一緒に支えていこうという考え方がすごくいいなと思い、また茶畑オーナー制度を開始する以前から『おぶぶ』では、作る人と飲む人が隣り合っているという姿勢だったので、その姿勢を仕組み化したといった感じですね。

森:今の動きがつながってきてるんですね〜

松本:茶畑オーナー制度は、一企業の一つのサービスを仕組み化した感じです。モノの価値って実はすごく相対的で、例えば、ボールペン1本が1万円だと、「高い」ですが、パソコン1台が1万円なら「安い」んですよね。お茶をお茶として売ったら、相対的な価値判断で、どうしても高く思われてしまうんですよね。でも「一日50円で茶畑一坪のオーナーになれる『茶畑オーナー制度』」なら、決して高くないと思ってもらえるのです。そうすると生産者サイドとしては、ふつうにお茶を販売するよりも、オーナー制度のほうが安定するし、生産にかかるコストも賄えるようになるのです。この相対的な価値判断に照らして、生産物が持つことができる価値を見つけることがもっとも大事ということを覚えたのがこの当時ですね。

森:まさにAIの時代になっていくと価値がなんとも図れなくなる時代になっていくんじゃないかなと私も思います。松本さんの活動はここ数年で言われている課題解決や取り組みの先駆けみたいな活動ですよね。東彼杵町への移住はお子さんの学校『きのくに学園』からのきっかけですか?

松本:そうなんです。きのくに子どもの村学園が東そのぎにできたことは、移住を決断する3つめの理由でした。そして2019年に東そのぎの古民家を購入し、2020年に移住しました。当時、自分的には、自分のやっていることに飽きてきてしまったという感覚もありました。2009年に「日本茶を世界へ」というミッションを掲げて、その後、海外通販や外国人旅行者向けの茶産地観光、国際インターン制度など、「日本茶を世界へ」伝えてゆくためにやるべき様々な活動をすでに事業化していました。あがき続ける地獄の10年の中で、夢をみて、夢に向かって進み続けて来たのですが、いざ夢が現実になって、こんどは天国の住人になるとどうなるか?

死んで天国に行くのか?天国にいると死んだような気持ちになるのか?そんなきもちになりました。

天国をさらに充実したものにすることより、自分にはもっとやるべきことがほかにあるのではないか?そんな思いに駆られるようになりました。

そして、一般社団法人国際日本茶協会を立ち上げ、それとほぼ同じ時期に東そのぎへの移住を決めました。

移住のきっかけは、3つあって、ひとつめは海のそばに住みたいという夢があったこと。ふたつめは、東そのぎの海と茶畑というティーツーリズム(茶産地観光)の可能性です。

2017年頃にティーツーリズムを研究しているカナダの先生から、東彼杵のグリーンティーリズムを紹介され、初めて東そのぎの存在を知りました。恥ずかしながら長崎に茶産地があることさえ知りませんでした。紹介されたグリーンティーリズムのウェブサイトは英語もしっかりしていて、「これはすごい!」と思い、2018年7月に、茶農家の大場真悟さん邸に家族でファームステイさせてもらったのです。魅了されましたね、海と茶畑の風景に。その際にアテンドしてくれたのが、飯塚さん(現観光協会事務局長)でした。

そして3つ目の理由が、前述の子供の学校ですね。ですので、お茶と海と子供がきっかけですわ〜。

森:松本さんは好奇心の塊ですね〜。ちなみに今の奥さん(石井恵子さん)と結婚されたのはいつですか?

松本:2014年の頃ですね〜。詳しくは嫁さんに聞いてください〜(笑)

松本:家を買ったのは2019年の5月。そこから1年かけて準備しようと思って2020年4月から、東そのぎでティーツーリズムをはじめるべく準備を進めていました。東彼杵町役場や観光協会とも協力関係を構築し、オランダからも一名就労ビザまで取って、いよいよ外国人観光客向けにティーツーリズムを事業化するぞ〜と。

そしてコロナ禍の到来です。それから今まで、まだまともにお客様は来れてない状況です。この春からかな。

森:いよいよこれからですね。

松本:そうですね。もう3年が経ちますね。この3年間で家のリフォームは上手になりましたよ。笑

チャレンジできるプラットホームの場を仕組みとして作っていく松本さんのパイオニア的な感覚が話を聞いてきて見えてきた。技術というよりは、松本さんの人柄が人望を集めているというか。中学時代に陸上でもキャプテンをしていたとか。松本さんのキャラクターに惹かれるからこそ、今回の役場の皆さんとの動きになっているように感じる。アフターコロナに向かい、いよいよこれから。冒頭に記載した「東彼杵町特別町民制度」の「こと」の話が松本さんの東彼杵町でのあらたな仕掛けであり仕組みになることは間違いない。