母が作ってくれるお菓子が大好きな少年は東彼杵で夢を叶えていく
面白い人々が集い、日々面白いことが生まれている東彼杵町の交流場『Sorriso riso』。その店舗の敷地を拠点とし、そこから各地域へ航海するのは2021年の3月からスタートした『CHANOKO』号。今日も優雅に回游し、くじら焼きを量産しては人々に甘味を届けている。指揮を取るのは、2021年の春先から移住してきたばかりの中村雅史さん。エピソードを聞くと、彼もまた面白い人生を描いてきた。
紆余曲折を経て、見えてきた“お菓子を作りたい”という想い
1986年に長崎県長崎市に生まれた中村さん。幼少期の夢は、学校の先生。母が作ってくれるお菓子が大好きな少年だった。
中村「高校卒業するまでは、ずっと長崎にいました。小さい頃は学校の先生になりたかったんです。また、母の作ってくれたお菓子が好きで、小さい頃から一緒にお菓子作りをしていました。その影響で、お菓子作りや、お菓子屋さんをやりたいという気持ちも漠然とありました」
高校卒業後は北海道大学へ。両親から勧められて理学部に入るも、興味を抱くことはなかった。モラトリアムを経て、お菓子の専門学校に行きたいという気持ちに変わっていった。
中村「当時、両親は私が本気で考えていると理解してくれていなかったので、どうしても興味が湧かない、自分のやりたいことと違うと説得させました。そして、そこからは専門学校へ行く資金を貯めることが優先になりました」
ただ、業界として見てみると、年齢的にすでに入るのが遅いというビハインドがあった。その中で認められるためにどうすれば良いか、思案を重ねた。
中村「18、19歳で就職するような世界なので、同じ新卒で雇うという時に、10代の子と、僕みたいな20代半ばの人間だったら、10代を雇うだろうなと。そう思ったら、普通の専門学校にってもあまり意味がない。打算的かもしれませんが、一番有名な学校で繋がりを持った方が将来的に大事にだろうと思い、大阪府にある辻製菓という関西の調理師系で一番有名な専門学校に行きました」
無事に辻製菓専門学校に入学し、そこから2年という月日をかけてお菓子作りを本格的に学んでいった。大阪で過ごした時間は、学業もプライベートもともに充実していたという。
中村「教師陣も有名な方が多く、得るものが多かった2年間でした。大阪時代が一番充実していたと思います。朝から学校へ行って、終わった後は本屋で週5日でアルバイトをして。夏や冬の長期休みは、大阪のホテルでパティシエの下働きとして短期で働いたり。合間でずっと動いていたんですが、それが苦じゃないくらい楽しかったです」
2つの会社でお菓子の製作・販売に携わり、全国各地で腕を磨き研鑽を積む
専門学校の卒業が近づくと、一大イベントである就職活動が訪れる。「自分は一体何をやりたいのか」。学べば学ぶほど、やりたいことも増えていた。
中村「洋菓子と和菓子で迷いました。辻製菓が和菓子職人の排出が日本で一番多いというので、そっちに進みたい気持ちもありました。ただ、学校でいろいろ学んでいると、いろんなことがやりたくなって(笑)。洋菓子の中でも、ブライダル部門やホテル部門、レストラン部門とか色々分かれているんですよ。それで、何となくいろんなことがやりたいと思っていると、就職担当の方から関東にあるブライダル系の会社を紹介されました。ウエディングもレストランもあって、デパートにもお店を持っているから小売もやっている。ここだったら、いろいろさせてもらえるかもしれないし、そこで自分の好きな道が見つかるかもしれないと思って」
そうして、勧められるままに応募し、採用を勝ち取った。就職し、5〜6年は東京、埼玉、栃木と関東圏内を回って仕事に明け暮れた。
中村「最初は埼玉の生菓子工場で、3年目になると宇都宮の焼き菓子工場でそれぞれ働いていたのですが、東京本社の販売・企画担当が辞めたことで、私に引き継いで欲しいという異動打診がありました。それで、本社で企画をしながら新宿のデパートにある店舗で店長として営業をやることになったんです。
……最初は嫌でした(笑)。お菓子を作りたくて入ったのに、何で同期や先輩、後輩が普通にパティシエとしてやっている中でマーケティングをやらなければならないのか。大変なことも多かったんですが、今になって考えると良い経験をさせてもらったなと思います。お菓子はただ作るだけじゃ売れません。戦略を考えるプロデューサーがいて、パッケージデザインを考える人がいて、実際にお菓子が売れるのです。それを考えられるようになってから、“ただ作るだけじゃなく、人に食べてもらう”までのことを考えられるようになりました。結果的によかったです」
“パティシエに戻って働きたい”。その一心で働いていたが、次の人事で会社が決めた異動先は本社のマーケティング部だった。企画・営業力をかってくれたことよりも、オフィス勤務で終わる自分が嫌だった。話し合いの末、違う会社で経験を積みたいと告げた。
中村「会社の先輩が独立し、そこでパティシエとして働くことは決まっていましたが、そのタイミングで父親が入院しました。これまで長く親元を離れて暮らしていたので、弱った父を見て急に心配になってしまって。先輩に謝って辞退を申し出て、九州圏内で働ける仕事場を探し直しました」
就活をする中で、京都が本店で、東京や福岡にも店舗を持っている会社と出会い、働くことになる。お茶屋がやってる”和カフェ”という、抹茶パフェの元祖として築いてきた老舗だった。
中村「それからは、福岡を拠点として、たまに長崎に帰りつつ仕事をするという生活を2年ほど続けました。商品開発にも携わることになったので、毎月東京支社に出向いて月替わりのパフェや企画を考えつつ、福岡店店長として営業を回すという」
福岡店は、全社の中で3番目に売り上げが立つ程の人気店。仕事は順調だった。しかし、2020年になってコロナの猛威が襲う。企業、特に飲食業にとっては未曾有の逆風に立たされることになり、中村さんが勤めていた会社も例外ではなかった。
中村「コロナが流行り始めて、全社で売り上げが落ちてきました。福岡店は人気店だったので、なくなるとは思っていなかったんですが、ちょうど契約更新のタイミングが来てしまいました。続けていくには、高い更新料を払い、リニューアルのための投資も必要です。京都本店が建物の関係で休業中、西日本で営業をしているのが福岡店だけという悪いタイミング。持続か閉店かを天秤にかけた末、会社の方針として博多店を閉めることになりました」
福岡でしか働かないと決めていたので、関東に戻る選択肢はなかった。しかし、会社からは東京にも定期出張する条件で福岡に居続けて良いと言われて考えていた。
お茶の名産地、東彼杵町との出逢い。
気がついたら、仲間になっていた
中村「そんな時、4日ほど連休をいただいて長崎に帰省しがてら、ゆっくり長崎を見て回ろうと思い立ちました。仕事柄お茶に興味が湧いていたので、彼杵や嬉野あたりを観光したんです。そこで、東彼杵町で気になっていたSorriso risoに立ち寄ってみると、素敵な場所だと感じました」
お茶とも関われるし、地元の長崎県でお茶に関わる仕事ができるのなら、このタイミングで転職するのもアリかも。そう思った矢先、Sorriso risoを運営する一般社団法人東彼杵ひとこともの公社が新事業『CHANOKO』の募集をスタート。運命だと感じた。
中村「これはちょうど良いと思い、話を聞きにいこうと深夜に応募したら、すぐに森(一峻)さんから返事が来て。そこからは、あっという間でした。年明けに連絡して話をしたら、気がつくと2月13日には引っ越しをしていました(笑)。最初は、お茶の名産地として話を聞ければ良いとの想いだったんですが、いざ話を聞いてみると面白そうで、いつの間にか面接ということになっていて(笑)」
その時点では、会社に話もしていなかった。だが、自分の好きなお茶やお菓子作りに関わることができる。何より、”面白そう”だと思った。一度福岡に戻って冷静に考えたが、その気持ちが変わることはなかった。
中村「いろんな偶然が重なり、そのご縁でこの地に来たので申し訳ないですが、私は東彼杵町に移住したくて来た人ではないです(笑)。ただ、来て良かったと思います。特に、”ひと”。事ある毎に皆さんが気にかけてくれて、助けてくれるので、ここで頑張りたいという気持ちになります」
お茶を知るパティシエとして。
自分らしい商品を作り、売りたい
様々な場所で腕を磨き、経験を経て行き着いた地は自分が望んだ長崎県だった。東彼杵町に来て、新たなスタートを切った。
中村「3月にCHANOKOがオープンしてから、2ヶ月くらいはとにかくバタバタで。最初はとにかくわからないことだらけ。会議も多くて、くじら焼きも焼きまくって。おかげさまでたくさん買っていただいたんですが、これから何をしていこうかあまり考えられませんでした。ただ、新しい味を作りたいという思いがあったので、落ち着いてきたタイミングで新しく入ってくれたスタッフの池田さんと話しながら方針を考えています。車を使った移動販売なので、周回場所の選定や現地のお店とコラボだとか」
2021年夏。大村市にある『駅前酒場 肴や』とコラボし、限定”キーマカレー味”のコラボを実現した。
中村「めちゃめちゃ評判が良くて、地元の人たちと何かを作るということの面白さ、そして良い繋がりが生まれると感じました。キーマカレーだけで1日200個近く売れたんですよ。印象深かったですね。現在は、県内全域。佐賀、福岡市でも営業許可を取ったので、今後もいろんなところとコラボしていきたい」
また、中村さんは一般社団法人 東彼杵ひとこともの公社の一員でもある。売れるものや面白いことを企画し、地元の人と自分とができることを掛け合わて取り組んでいくのが、今後の目標だ。
中村「私は、お菓子作りを極めたわけでもないし、日本茶インストラクターの資格を持っていてもそこまで詳しいわけでもない。興味があったことをやってきたけど、深いところまではできてないからプロとしてどうなのかと悩んだ時期もあったんですが、お茶のこともわかってお菓子が作れる人なんてそんなにいないし、自分にしかできないことをできたら良いと思います。お茶の特性を分かった上でお菓子を作るとか、お店をリサーチしてそれに合ったお菓子を作るとか。そんな、普通のパティシエや普通のお茶屋でできないことを提案していきたいし、活動していきたいです」
くじらは、昔から人々に幸福をもたらしてきた。東彼杵町の新名物となったくじら焼きのCHANOKO号に乗るのが、そんなパティシエだったらこんなに心強いことはないだろう。大村湾を囲む長崎県内の各市町、そして、県外という大海原を回遊し、これからも人々に幸せを届けて回るに違いない。
みせについての詳細は以下の記事をご覧ください。