型にはまらず、枠を超えて、つくる。波佐見町の唯一無二の陶芸家、長瀬渉さん

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東彼杵郡波佐見町の型にはまらない陶芸家、長瀬渉さん

長崎県中央部に位置し、四方を山に囲まれた波佐見町(はさみちょう)。ここでは、日本棚田百選にも選ばれた「鬼木棚田」といった豊かな自然のなかで、400年の歴史を持つ陶磁器産業「波佐見焼」を中心とした「ものづくり」の町としての息吹が聞こえてくる。現在においても、日本の食卓を彩るスマートかつ機能的な日用和食器の一大産地として全国的に高いシェアを誇る。そんな波佐見町の中心から車で10分ほど、少し外れた山に向かって走っていると、突然目の前に集落が開けて煙突が目に飛び込んでくる。「陶郷中尾山」である。17世紀中頃に窯が初めて築かれて以降、現在まで窯業を継続している。今もなお多くの窯元が集積する中尾山には世界最大規模の登り窯跡があり、当時貴重品であった磁器を広く普及させるとともに、食文化にも大きな影響を与えてきた。

この中尾山で作陶活動を生業に、”ないものは自分でつくる”精神で窯や陶房、そして人々が憩い賑わう場所をつくる町興しにまで活動を広げている人がいる。長瀬渉さんだ。「陶芸家」という言葉を聞くと、人里離れた場所で、ただひたすらに焼き物作と向き合う職人、芸術家のイメージを頭に描く方も多いと思う。だが、氏はそんな我々の型にはまったイメージを壊してくる。

惜しみない生き物への愛情が作品に込もる「もう、大好きよね。うちの子と一緒(笑)」。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」。誰もが一度は聞いたことがある松尾芭蕉の俳句でも知られている山形県宝珠山立石寺、通称『山寺』の自然豊かな地で生まれ、育った。

長瀬「山寺って天台宗とかで有名で、昔からゴールデンウィークだけで100万人とか、それだけの人が集まる観光地になってるんだけど、子どもの頃は遊び感覚で山菜やマツタケを取ってくれば商店街の人たちが買い取ってくれるし、漢方を売る店では焼酎漬けにするマムシや山椒魚なども買い取ってもらったり。そういったお金を稼ぐということが、すべて遊びと直結していたんだよね」

昔から自然が好きで、生き物が好き。九州山地とは異なる、熊も出る奥羽山脈の荒々しい山や渓流を駆け回り、生き物を捕まえてきては家で飼育していた。

長瀬「動物が好きな状況は揃っていた。イヌ、ネコ、ウサギ、リス、サンショウウオ、トカゲ、イグアナ、インコ、ジュウシマツ。木から落ちたフクロウの子供を育てたり、タヌキを保護したり、ウナギも飼ってたな。家族も動物愛はあったんだけど、俺はそれ以上だった。庭がミニ動物園みたいになって。だからなのか、子どもの頃の夢は獣医さん。当時放送されていた『ムツゴロウ王国』が好き過ぎて、入りたかった。ムツゴロウさんは俺にとって神だからね(笑)。特に好きな生き物を挙げるとなると、愛でる感じで好きなのはトカゲとかカエルといった爬虫類、両生類だね。

そんな氏が、どうして陶芸の道に突き進んでいくことになったのだろうか。

長瀬「親父が、脱サラして山寺で陶芸を始めて。そのときに、邪魔になるから粘土で遊んでおけと(笑)。でも、作業場も自由に使えるし、そのときに俺が作ったものを、母親がいたずらで値段つけて店頭に置いてみたら、それがポンポンと面白いように売れてね。学校が終わると、家に帰って作る。そうして小学校卒業するまでに、貯金箱がパンパンになって、通帳に移したら200万以上になっていた」

氏に言わせれば、ものを作ること・売ることは、当時から息を吸うのと同じことだったのかもしれない。自らモノを作って売る小学生。もはや想像の域を超える話だ。親にもマージンを払っていたというのだから驚きしかない。

長瀬「親にも売上の30%を払っていた。焼くのは親だから、売れるようになったら『お前少し寄越せ』と(笑)。とにかく忙しい小学生だった。友達みんながファミコンで遊んでいたとき、自分は動物のゲージの修理をしていたり、もの作りをしていた。特に、お客さんが買ってくれる、お金をもらうという行為が楽しくて。中毒になっているようなものだね。次は何が売れるかなと考えて作って。今ウチの陶房で人気のあるカエルの一輪挿しとか、原点は子供の頃に考えたものだよ」

子供の感性は、時に大人を圧倒する。いわば、ダイヤの原石のようなモノである。氏は、その時の感性を忘れずに今も忠実に、いや、さらにアップグレードさせて形にしていく。上記の写真は、カエルの一輪挿し。作品から物語が生まれそうな、なんともユニークな商品である。

その活動は小学校から中学、高校と続け、与えられた才能を自然のうちにさらに伸ばしていくこととなる。美術部に入らずとも、県美展や河北展で賞を取ったり。東北芸術工科大学の入試の際に出題テーマとは関係ない自分の得意分野で勝負をして合格したり。大学でも頭角を現し、同大学院を修了したのち、難関と言われる東京藝術大学工芸科研究生へ入学。トルコのチェキ国際陶芸展グランプリを受賞、などなど。武勇伝は数えきれない。

縁が紡ぐ運命の歯車に乗って波佐見町でゼロから町を興す

山形から大学院時代を東京で暮らした後、妻の恵子さんが佐賀県有田町にある有田窯業大学へ進学することをきっかけに、2003年に隣町の長崎県波佐見町へ移住することを決めた。氏曰く、「ただの引っ越し」だったらしいが。

長瀬「こっちに移住した理由は、”海”があること。長崎県は海洋県のイメージがあるから。山寺は渓谷があって渓流育ち。好きでずっとやっている釣りは、もともと渓流とヘラブナ釣りから始まったんだけど、ふらっと海釣りに行ける憧れはあったよね。山形県も海はあるけど、行くまで2時間半。妻が絵付け勉強したいって有田に行くって言うから、どうせだったら佐賀の隣の長崎県に住もうと。でも、住んでみたら海まで結構遠いって言う(笑)。でも、大村湾は結構好きだね。生活エリア内だし、あんまり気張んなくて良いというか。生活ついでの釣りを楽しめるというか」

こうして、海釣りを楽しみながらの作陶という念願の生活が始まった。ただ、来た当初は波佐見町に長く居るつもりはなかったという。ところが、そこで氏に運命の出会いが訪れることとなる。波佐見焼の大手老舗メーカー、西海陶器株式会社・代表取締役会長の児玉盛介さんだ。出会いの歯車は、周りを巻き込みつつゆっくりと回り始めることとなる。

長瀬「西の原と呼ばれている地区の土地と建物を無償で使っていいと言われた。元窯元の建物で、ボロボロだったんだけど(笑)。でも、面白そうだからやってみようかと。自分で改修して、『ながせ陶房』を作ったんだ。それで、仕事をしているとウマいコーヒーが飲みたくなるし、ウマい飯が食べたくなってくる。近くにカフェなんてあんまりなかったから、だったらここに作っちゃおうと。でも自分ではやれないなぁと思って、東京時代からの友人の岡ちゃん(岡田浩典さん)を口説き落としてお店を開いてもらったんだ」

現在、年間15万人もが訪れる人気スポット「西の原」。その象徴とも言えるカフェレストラン「monné legui mook(モンネ・ルギ・ムック)」を岡田さんとともに立ち上げた。その後も、オルタナティブスペース兼ギャラリー&ショップの「monne porte(モンネポルト)」など次々に生み出していく。他にも美術大学生と町の人との交流イベントとして作陶ワークショップを展開したりと、波佐見焼きを全国に知らしめる大きな一役を担ったことに違いはない。

山形の地からやってきた一人の陶芸家が、”時代や流行で変化しない価値の創造”を理念に作り始め、周りの仲間が賛同して助け合い、徐々にその輪が広がって。そうして、確かに町を変えたのだ。いつの間にか、波佐見町への定住を決めていた。地域に根付く、助け合いの精神が気に入ったからだ。その後は14年から現在の中尾山に陶房を構え、今も作陶を続けながら新しい取り組みを次々と企画、実行している。

“もの作り”を続ける理由。それは「自分の所有欲を埋めたいから、作る」。

新たな作品を生み出すときの意欲の源は、人によってさまざまだ。「人をアッと驚かせたい」「ナンバーワンになりたい」という思惑を抱いて背伸びをすることもあるだろう。「創造する」ことは”自分の技術を世に知らしめること”という事実がある中で、果たしてどのような感情で創造のスイッチを入れているのだろうか。

長瀬「技術がどうこうで意欲が湧くとかそういうのはなくて、ただ単純に、”クジラが作りたいから、クジラを作る”みたいな。欲しいものがあって、そこからイメージが湧くというかね。猫とか猿みたいな苦手分野はあるけど、これまで何千、何万って作ってきているから、いまさらそんなに美術としては気張らない。美術畑にいた人間ならわかると思うけど、”アートチックなもの”って、テクニックさえあればどうってことないんだよ。でも、それは所詮アートチック止まり。想像の範囲内で感動させる仕事じゃないんだよね、芸術って。美大にいる頃に、いわゆる”今が求めている、続いていく美術”に飽きちゃう。それで、結局身近なものに行き着いた。俺、考え込むことってあんまりしないからさ。クジャク作れって言われたらクジャク作るだけだから(笑)」

長瀬「わりかし、美術は馬鹿にしていると思う。今でも大学に行ったりすると、『なんで、この子は作ってるんだろう』とか、逆に疑問に思うこともある。授業のレポートを見ても、引用しているのとかすぐわかる。一番自分をさらけ出して、身の丈に合った作品作っていかなきゃならない立場なのに、なんでこいつはすぐ背伸びして文句を言われるところを触れちゃうのかなと。みんな良い子になろうとし過ぎるんだよな。だから、俺の場合はイグアナ飼ってたから、カエル飼ってたから、それを作ろうかなって。あと、当時は飼いたかったけど飼えなかった動物を作って。子どもがぬいぐるみを欲しがるみたいにさ」

「自分が楽しいと思うことをして、欲しいと思ったものを作っただけ」と氏は笑って話す。肩肘張らず、常に自然体であるからこそ出る真実の言葉だ。陶芸に限らず、町興しにだって言える。『エリアリノベーション』や『コミュニティデザイン』という言葉で飾るよりも、「自分が手に入れたいから作る。完全に、私利私欲です(笑)」と語る方が人間臭くて、だけどよっぽど真実に近いことだと思うのだ。

長瀬「芸術の世界はさ、1000人いたら1000人に売るっていう商売ではないから。1000人の中に1人、2人目に止まってもらえれば。そして、買った人が1000人に影響を与えられる人だったら嬉しいなというくらいの気持ちで作る。でもさ、ピンポイントにうちの顧客は2000人くらいだから、その半分くらいは顔と好みが思い浮かぶのよ。その人たちに向けた作品を作っちゃえば良いって思う。適当に時間を埋めて作りたいなというときはそういう作業をすれば良いし、自分の表現を知ってもらうためにという気持ちはあんまりない。クライアントがこっちに惚れ込んでいてくれるから、任せてもらえる。こっちも根が正直だから、作るに関してはこっちがプロだから任せてくれと言っちゃう。出たとこ勝負だね(笑)。

波佐見町に移り住んで、18年が経つ。氏の挑戦は、陶芸に限らずその枠を飛び越えてこれからも進んでいくことだろう。そこに、終点はない。「まだまだ、これからだよ」。こうして歴史が作られていくのだ。

みせ・こと・ものについての詳細は以下のそれぞれの記事をご覧ください。

長瀬 渉

長瀬 渉(ながせ陶房)

1977年、山形県山形市生まれ。東北芸術工科大学・大学院を修了後、東京藝術大学工芸科研究生修了。長崎県 波佐見町の西の原の立ち上げなど活動にも注力する陶芸家。生き物系作家の中でも、お魚単体では先駆者的陶芸作家と名の高い渉さん。おこぜ、あらかぶ、ふぐ、たこ、あんこうなど、海の生き物を忠実に、繊細に再現した作陶を多く手掛け、数々の賞を受賞する気鋭の陶芸家「海と過ごし、生まれる作品達を、陶に記す」。と題し今年の1月にも2年ぶり3度目となる「海陶記」を日本橋三越本店にて開催。長崎県内で日本橋三越本店にて出展できる作家や職人さんはごく僅か。長崎に来て10年以上の間、普段、なかなか個展をこれまであちこちでは開催されてこなかった中、Sorrisorisoでの「海燕日和」やガチャガチャの設置など、このような形での出展は初めて開催いただいております。