川棚で生まれパリの味を知りつくす和洋菓子職人『菓舗 いさみ屋』社長 尾﨑勇一さん

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和菓子職人の息子は洋菓子職人となり
やがて和菓子職人への道をも極める

今から約1万年も前の壁画に、蜂蜜の採取と思われる絵画が残されているのだそうだ。甘味は、塩味とともに太古の昔から人々を魅了し、味覚への追求が人々を調理という創造へと掻き立てた。そのひとつが、『菓子』である。日本の歴史において、元は果物や木の実の総称だった言葉が、長い年月の中で嗜好品として製造される食品へと転じていくわけだが、明治時代に入り西洋から入ってきた洋菓子に対する言葉として和菓子が生まれた。

洋と和の菓子。文化が違えば製法も全く異なるのだが、長崎県は川棚町の地に、どちらの菓子も手掛ける言わずと知れた和洋菓子職人がいる。創業66年を迎える『菓舗 いさみ屋』の2代目、尾﨑勇一さんだ。

尾﨑「今、59歳になります。和菓子屋の長男として生まれましたが、父の家業を継ぐつもりはなく高校卒業後は進学するつもりでいました。しかし、進学の目標が消え、長男が家業を継ぐというのがまだあった時代にたまたまお菓子屋の長男だったので、この先どうするか考えた末に東京の製菓学校に行くことを決めました」

あんこが苦手だったこともあり、和菓子ではなく洋菓子の道を選択した尾﨑さん。そこから、洋菓子店を梯子しながらの修行の日々が始まった。

尾﨑「修行は10年になります。8年東京でスキルを磨き、残りの2年は洋菓子の本場フランスのパリで。きっかけは、たまたまフランスに行けるご縁ができまして。日本人の方でフランスで独立された方がいて、そこを紹介してもらえたんですね。そして、私自身フランスで菓子作りをしてみたい気持ちもあって。8年のキャリアの総仕上げという意味で渡仏しました」

国内で作ること、フランスで作ること。それは、菓子職人としては意味合いが大きく違ってくるだろう。

尾﨑「当時は日本の洋菓子に対する技術が高くなっていた時代。そして、日本でも師匠に付いて技術を磨いてきたのでフランスに行っても特に困ることはなかったですね。逆にフランス人より仕事ができたと思います。きちんと仕事に向き合っていけば、フランス人と同等、それ以上に仕事はできます。ただ、どうしても洋菓子がフランス発祥のものなので、そういった文化の側面では超えられないとは思いますが。ただ、その2年間本場にいけたという感覚は自分の中でとても大きいです。とても貧乏な生活をしていましたが(笑)、現地に行って実際に働くという経験はかけがえのない財産ですね。今から30年以上も前の話です」

28歳に渡仏し、30歳まで。フランスで2軒パティシエとして働いた後、そのまま日本へ戻ってきて実家であるいさみ屋へと就職することとなる。

尾﨑「菓子屋になると決めた時から、いつかはいさみ屋に戻ってくるものだと考えていました。地元川棚の街が大好きでしたし。私の和菓子のキャリアは、いさみ屋に入社してから始まりました。それまでずっと洋菓子専門だったので、和菓子と和菓子屋の経営方法に関しては先代から教えてもらった形になります。結婚もしていたし、30歳を過ぎて他の和菓子店でキャリアを積むということは考えられなかった。なので、和菓子店でのキャリアはないです」

仕事を覚える場所として東京で暮らし、長い人生住み続ける場所として地元川棚で生活の基盤を構えた尾﨑さんは、先代から和菓子のいろはを学んだ。しかし、同じ菓子職人とはいえ、洋菓子から和菓子への転換は難しかったのではないだろうか。

尾﨑「30歳で12年くらいのお菓子の技術は持っていましたから、一通りできると踏んでいました。そして、先代は和菓子、自分は洋菓子職人として和洋菓子屋としてやっていくのがベストのスタイルだと。しかし、いさみ屋で1~2年働く中でいろんなことを感じましたね。和洋菓子店として、銀座の一流店で作ってたケーキをこの地で提供しても、全く売れなかった。地域性が伴ってなかったんです。そこから、いさみ屋に来てくれるお客さんは、いったい何を求めているんだろうと。そう考えた結果、和菓子をもっともっと高めていかなくちゃならないと。今となっては、和菓子の素晴らしさを知り、思い入れは強いです」

尾﨑「そして、私が42、3歳の頃に先代が病気で他界しまして、そこから店を引き継ぎました。引き継ぐからには、常に進化させる必要と責任を感じました。現状のレベルで美味しいと納得してしまうと、そこで終わってしまうから。ある程度のレベルに達しているからお客さんが来てくれているのには違いないんですが、そこで止まるのではなく、もっともっと美味しくするためにはどうすれば良いかと意識しながら作っています。現時点で完成はしていません。そうしないと、先がないですから。会社は業績が上がれば成長しますが、食を作る者としてはもっと美味しくなる可能性を追求したいです」

どんなに評判のお菓子であれ、10人が10人「おいしい」と言ってくれるかというと、そうではないだろう。だが、そこのパーセンテージを上げていく必要性があると語る尾﨑さんに職人の魂を感じた。

尾﨑「一つ一つの商品のクオリティ位を高めて、全ての商品でそう言えるようにしていきたいですね。そういった意識は常にしています。先代が築いた川棚まんじゅうだけが特別ではなく、自分のところで作っている商品は全て、安全でより美味しいものにして提供するという責任を感じています。経営していくには、他にもいろんなことをしなくちゃいけないんですが、常に気持ちの中には置いています」

和菓子一筋だった父
その背中を追いかけて

尾﨑さんのお菓子に対する想いは、亡き先代の信念も色濃く受け継がれている。

尾﨑「父は波佐見町の出身です。そこから川棚に来て、和菓子屋を始め、初めはバイクで佐世保市内まで行商に行っていました。生粋の和菓子職人。先代は名工と言われるレベルだと思います。和菓子屋になる前は竹籠を作っていたそうですが、それもあって手先は抜群に器用でした。今の私でも敵いません。性格も即断即決で。私は全然違うタイプで、修正していく人間なので」

こちらが、先代である尾崎勇さんの写真だ。

尾﨑「ちょうど亡くなる1年前のものですね。73歳で亡くなったので。現在の場所に工場を建てて1年くらいは、一緒に仕事もしていましたが、急に病気になってしまってね。豪快な人生でした。私が言うのもなんですが(笑)。創業者は、得てしてそういうものだと思います」

親として、創業者として尊敬の念は強いと言う。

尾﨑「怖いもの知らずになんでもやってきた。だから、痛い目にもかなりあっています。順風満帆に進んだことはなく、両親は誰よりも苦労していると思います。でも、先代は職人として私の目標です。どこまで追いつけるかはわかりませんが、経営者として、菓子職人として、常に意識しています。父の後ろ姿を見ながら仕事をしてきたから、それが今の私にとってプラスに働いているというのもあります」

人々に50年以上愛される、もっちりとした食感の一口まんじゅう「川棚まんじゅう」。先代が長い年月をかけて作ってきた看板商品で、今も進化をし続けている。食べると懐かしい気持ちにさせてくれる、優しく上品な甘さにリピーターは多い。

尾﨑「仕事の覚え方は見て覚えろという、昔の職人スタイルそのものでした。鍋は投げられるわ、蹴られるわ(笑)。それが当たり前の時代でしたから。今の週40時間労働のスタイルなんで当時では考えられないですよ。週に1日休めたら良いくらいで、東京にいた頃も始発の電車に乗って11時くらいまで残業代もなく働いていました。ただ、なぜそれに耐えられるかというと、働いた分だけ技術が身に付けられるから。技術が高くなればなるほど、職人としては一流に近づくから。みんなそう思っていました。時代の流れですね」

尾﨑「でも、そのおかげか、この年になってくるといろんなお菓子が作れるようになったなという実感があります。和菓子についても50歳になるまではわからなかったんですが、その頃から色々と見えるようになってきました。例えば、Aというお菓子をぱっと言われてパッと作れるようになったのもそうですね。それが、洋菓子、和菓子どちらもそういう風になってきたのは職人として感慨深いです」

菓子に向き合い、人に向き合う
大事なのは『すこし、心を添える』こと

現在において、洋菓子は日本人にとって身近なものとなり、パティシエを志す者も多い。一方で、和菓子業界において人手不足が叫ばれているが、高齢化社会を迎える日本人にとってはなくてはならない生業であろう。洋菓子も、和菓子も。いさみ屋2代目の職人としてその道を極めてきた尾﨑さんにとって、これからの菓子職人のあるべき姿を伺ってみた。

尾﨑「全国の流れとしては、和菓子屋は増えずに洋菓子屋は増えています。理由は、独立しやすいから。これから時代がどうなるかはわかならいですが、最終的には菓舗 いさみ屋という屋号がこれからも残っていってくれればと。次の人にバトンを渡すときに、自分の形でバトンを渡す。そこまでが自分のキャリアではないかなと思ってます。そのなかで、これはスタッフにも言っていることなんですが、『すこし心を添えてあげる』。そしたら、今より少しだけでも違うものができるんじゃないかと思うんですよ」

尾﨑「言い方は悪いですが、同じお菓子を作るにしても配合をきちんとして作れば、例えばマドレーヌなんかは誰が作ってもできると思うんですよ。だけど、そうじゃなくて『お客さんのことを想う。気持ちを添える』。それが大事じゃないかなと。お店の方は、販売なんですけど来て良かったと満足してもらえるような接客・サービスを心がける。なかなか難しいことなんですが。でもそういったことが、この先繋がっていく。目には見えないことなんだけど」

菓子に真摯に、シンプルに向き合う。お客さんの笑顔が見られるような菓子作りをしていく。配合が同じなら菓子の味は同じであるはずだが、そこに心を添えてあげる。その心配りが職人にとって大事なのだと尾崎さんは語る。

尾﨑「味に大きな変化は出ないかもしれないけど、その想いを感じ取ってくれるお客さんがいるかもしれませんから。機械で作る工程もありますが、手作業で作る工程もありますから。殺伐と業務をこなすように作っていても味気ないと思います。あとは、辛抱強く。そして、お菓子作りが好きであることが大事です」

尾﨑「今働いている子たちの中には20代もいます。よくやってくれているので、いろんなことを任せています。調理師学校を出て和菓子を作りたいとウチに来てくれて。家が有名な料理屋で、両親とも昔から知っている仲。だいぶ言ったんですが、両親も納得したので。ただ働くというのではなく、菓子作りというのがあるからみんな働いてくれるんでしょうかね」

まずはプロセスをクリアしていくことだと、尾崎さんは教えてくれた。焼きの仕事。形を作る仕事。お菓子作りは工程が決まっている。一から十まで出来れば、とりあえずは菓子職人になれる。そこから、自分という個性を出していくのだ。

尾﨑「後は、ご縁は大事にした方が良いです。モノに向き合っていく仕事でも、最終的には人と向き合わないと。もっと良いものができます。それはどんな業種でもそうです。昔の人たちは職人気質が強く頑固でしたが、今の時代はよりいろんな世代を超えて一緒にやっていく。それが大事だと思っています。今の時代の流れであり、社会にとってもプラスになります。この年になって、ようやくわかってきたことです」

最後に、趣味の話題で盛り上がったのだが、その話も興味深かったので書き留めておきたい。ちなみに、尾﨑さんの趣味は、食べ歩き、ワイン、プラモデル作りだ。

尾﨑「ワインは25歳の時からですね。銀座の洋菓子店で働いていた時、師匠から『休みの日は何してますか?』と聞かれ、適当に遊んでますと(笑)。そこで、師匠から教わったんですが、フランス料理屋に行けばデザートがある。ランチだと安くで食べられるから、そこでデザートの勉強をする目的で食べに行ってみなさいと。その時、フランス料理を食べるのなら、ワインも飲まないとということで、そこから食べ歩きながら徐々に覚えていきました。そして、フランスに行ったときに、76年のビンテージワインを1本飲ませてもらったんですが、そこから自分の一番の趣味と言えるほどまでハマってしまいました。あとはミリタリーなんかのプラモデル作り。ボケ防止のために始めました。作るよりも買う方が頻度が高くなって溜まっていく一方ですが。プラモデル200箱、ワイン200本を所有しています。私の癒しですね」

意図的になのか、自然になのか。趣味も、菓子づくりに必要な五感と細かい手作業を鍛える布石となっていたのだ。

尾﨑「美味しいお菓子を作るっていうのは確かな味覚と嗅覚がないとやっていけないと自分は思うんです。だからデザートにとらわれない料理の食べ歩きなんかも欠かせない。塩加減なども菓子作りのヒントになったりするんで」

菓子の世界に限らず、「趣味を生業にする」という職人は多いだろう。仕事が完全に趣味になる、そんな生き方は、仕事をする人間として少し羨ましくもある。だが、「趣味も生業に繋がっている」という生き方はもっと羨ましいと感じる。自分でどんどん世界を広げられ、その世界すらも自身の領域に取り込めるのはなんと幸せなことだろう。先代が前者であれば、2代目は後者だ。

広く知り、深く極める。『菓舗 いさみ屋』の2代目とは、こういう職人なのである。

みせ・こと・ものについての詳細は以下のそれぞれの記事をご覧ください。

尾崎 勇一

尾崎 勇一(菓舗 いさみ屋)

1961年生まれ。高校卒業後上京し都内の洋菓子店で8年間修行。渡仏しパリ市内のパティスリーで2年間の修行。帰国後は家業のいさみ屋に入店、創業者から和菓子づくり・経営を学ぶ。 2002年「有限会社いさみ屋」の代表取締役社長に就任し、2代目店主となる。伝統を守りながらも、かりんとうまんじゅうやアン食パンなど和洋を学んだからこそできる人気商品を考案。趣味はワインのティスティングとプラモデルと食べ歩き。